原爆の日とお母さんと広島カープ⚾

東京ドームの電光掲示板

79回目の広島原爆の日だったきのう、NHK総合で放送された平和祈念式典のテレビ中継を観て、原爆が投下された朝8時15分にひとりで黙祷を行った。
毎年そうすることを自らに課しているわけではないけれど、広島出身の人間として、その日、その時刻に起きていれば、被爆者への慰霊を励行するようにしている。

その後、東京ドームへ出かけ、グラウンドで巨人の試合前練習を見ていたら、郷里・竹原の施設にいる母親から電話がかかってきた。
取材中なのですぐには出られなかったが、こういうときは、なるべく仕事の合間を見計らって折り返すようにしている。

「祈念式典を観たよ。
えかったぁ、あんなん、かつてなかった」

母親は感に堪えないようにそう言って、原爆の日の思い出話を始めた。
当時、7人きょうだいの末っ子だった母親は小学6年生で、竹原市でも広島市に原爆が投下された瞬間、空がピカッと光ったことを今でも鮮明に覚えているという。

同じ時刻、中学3年生だった父親は、友だちと一緒に竹原の低山の頂上にいた。
ピカッと光った瞬間は、それが原子爆弾という新型爆弾だとは知らないから、何か大がかりな実験が行われたのかもしれないと漠然と思った、と生前に話していたことがある。

「うちは運がえかった」と、電話口の母親は問わず語りに話を続ける。
広島市に住んでいた親戚がみんな、原爆投下の何日か前に疎開で竹原に帰ってきていて、誰も原爆に遭わなかったから、というのだ。

ただし、10人以上の親戚が寝泊まりしている間、母親も子供ながらに食事の用意などを手伝わなければならず、毎日大変な思いをしていたらしい。
それでも、「戦争に行っとった男はみんな生きて帰ってきたし、うちはホンマに運がえかったとみんなに言われた」と母親は振り返る。

もっとも、「赤坂のお父さん」、つまり僕の祖父はげっそり痩せて戦地から帰還したそうだ。
その祖父は戦後、酒浸りに近い状態だった、と若いころの父親に聞いたことがある。

子供のころからバレーボールをやっていて、スポーツ好きだった母親は、1950年に広島東洋カープが設立されると、たちまち熱狂的なファンになった。
広島市民球場には何度か家族そろって観戦に行き、いつだったか、日本シリーズが開催された年には、父親は会社、僕は学校があるので、自分だけ親戚や友人と観に行っていたものだ。

原爆についての話が終わると、母親はいつものようにカープについて聞いてきた。
きのうは勝った? きょうはどことやるん? テレビはあるの?

カープはもっか首位を維持しており、原爆の日の夜は東京ドームで巨人に5-0で完封勝ち。
新井監督は試合後、こうコメントしている。

「きょう一日、平和に野球ができることに感謝しながらグラウンドに立っていました。
そういう日に勝てて良かったと思います」

なお、きょうの試合は一度は逆転しながら巨人に追いつかれ、延長十二回、4時間30分のロングゲームの末に引き分け。
おふくろはとても最後までテレビ中継を観ていられなかっただろうな。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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