寺尾さんと錣山部屋の思い出

18日付日刊スポーツ1面

寺尾さんの突然の訃報にはただただ驚きました。
個人的な親交はまったくありませんでしたが、同じ昭和38年2月生まれだったので勝手に親近感を抱き、いつもテレビの前、たまには両国国技館の枡席で声援を送っていたから。

寺尾さんの売り物と言えば回転の速い突っ張りだったけれど、土俵上の立ち姿が非常に美しいお相撲さんとしても知られていた。
国技館の中入り後の土俵入りで寺尾さんが登場すると、よく女性ファンから一際大きな歓声があがっていたものです。

僕は15年前、そんな寺尾さんと会話を交わす機会がありました。
当時、月刊誌Wedgeに連載していた『SPORTS突き抜けた瞬間(とき)』の取材で、錣山部屋を訪ね、豊真将関(現立田川親親方)にインタビューしたときのこと。

当時掲載された記事と、旧サイトに記した取材にまつわる余談を、寺尾さんへの追悼の気持ちをこめてアップしておきます。
よかったら御一読ください。

Wedge 2008年5月号

以下、旧サイト:2008年5月11日付Works記事を再掲

足掛け3年目に入ったこの連載、当初は実績重視でゲストの人選をしておりました。
が、最近は将来性のある若手、ふだん陽の当たらないジャンルで頑張っているアスリートにもスポットを当てていこう、と考えています。

また、個人的にも、いままでに取材したことのない世界を覗いてみたい。
というわけで、行ってきたのが錣山部屋です。

親方は現役時代、私も両国国技館で取組を見たことのある元関脇・寺尾。
その秘蔵っ子・豊真将関にインタビューして参りました。

素顔は実に気さくな若者で、私が「昔の親方は人気者でしたよね」と水を向けると、
「ファミコンのゲームになったぐらいですもんね、『寺尾のどすこい大相撲』っていう、ぼくもよくやってましたよ」。

そこへ当の錣山親方が通りかかり、せっかくだからと私が名刺を渡そうとすると、
「いいんだよ、いいんだよ、そんな気を遣わなくて。俺なんかどうせウェッジには取材してもらえないんだから」。

さらに、「いつも読んでるのになあ、俺の取材には来ないもんなあ」。
それではと名刺を引っ込めようとしたら、「まあ、せっかくだからもらっておこうか」。

大笑いしていた豊真将関は、「親方に出会っていなければ、今の僕はないです」と言い切る。
定評のある美しい所作も、その親方の指導の賜。

立ち上げたばかりの4年前、弟子は豊真将を含めてたったの3人、倉庫に土俵を作って稽古が行われていた錣山部屋。
その親方と一番弟子との間に何があったのか。あとは本文を御一読ください。

謹んで寺尾さんのご冥福をお祈りいたします。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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