『冒険者たち』(1967年)のロベール・アンリコが監督、フランスのアカデミー賞に相当するセザール賞で作品賞、主演男優賞(フィリップ・ノワレ)、作曲賞(フランソワ・ド・ルーベ)など3部門を獲得した佳作。
ヒロインを演じたロミー・シュナイダーは当時37歳で、全盛期の美貌を誇っていたころの最後の逸品とも言える。
このころのフランス映画、とくにアンリコの演出でハッとさせられるのは、一種独特の「落差」である。
平和で穏やかで家族愛に溢れた田園風景が、いきなり血と暴力によって踏み躙られる、そういう「落差」。
開巻、夫ノワレ、妻シュナイダー、娘(ノワレの連れ子でシュナイダーは後妻という設定)の3人がそろってサイクリングをしている姿が正面からワンカットで捉えられる。
ルーベの美しい旋律に乗り、エチエンヌ・ベッケルのカメラにスローモーションで映し出されたシーンは、まるで一幅の家族の肖像画のようだ。
本篇に入ってからもしばらくこのトーンが続き、予備知識がなければ小津安二郎作品のような戦時中の家庭劇ではないかと錯覚しそうになる。
この穏やかでほのぼのしたムードが、ノワレがシュナイダーと娘を片田舎の古城に疎開させ、数日後に様子を見に行ったところからガラリと変わる。
無人と化した村の中、教会の前まで来ると、子供が血まみれになって倒れている。
ノワレが教会に入ると、子供も大人も老人も、村人たちが蜂の巣にされ、死体となって転がっていた。
まさか、おれの妻と娘も。
果たして、ノワレが駆けつけた城には、ナチス・ドイツ兵たちによって射殺された娘、そして無残にも火炎放射器によって黒焦げにされた妻の死体があった。
この「落差」は強烈である。
まだ特殊メイクが現代ほど発達しておらず、シュナイダーが炎に包まれる特殊効果も今時の映画とは比べ物にならないが、そういう技術を凌駕して、人間の根源的恐怖心を揺さぶる衝撃がここにはある。
あれほど愛した人が、これほど簡単に、あっという間に黒焦げの炭になり得るのだ。
それが戦争の、つまり暴力の持つ本質的な恐怖なのだということを、この映画はまざまざと教えてくれる。
アメリカ映画なら、主人公の極限にまで達した恨みつらみを強調し、これから始まる復讐劇を思い切り扇情的に盛り上げようとするところだろう。
しかし、アンリコはそういう手法に走らず、ノワレもバイオレンス・アクションのヒーローになることなく、あくまでも市井の平凡な男として、黙々とドイツ兵たちを殺し続ける。
そうした復讐の合間にも、ノワレは在りし日のシュナイダーに思いを馳せ、美しかった過去を追想する。
この思い出が現れる順番が絶妙で、最近から昔へと遡り、ノワレが最後にナチスの将校を追い詰めた矢先、初めて出会ったころのシュナイダーの面影が挟まるのだ。
見終わったときは泣けなくても、思い出しているうちに涙がにじんでくる、そういう映画である。
オススメ度A。
旧サイト:2015年12月14日(月)Pick-up記事を再録、修正
A=ぜひ!🤗😱 B=よかったら😉 C=気になったら🤨 D=ヒマだったら😑