『ひめゆり』(新文芸坐)🤗😱

131分 2007年 プロダクション・エイシア
@池袋新文芸坐:2015年8月23日

沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館は1989年、ぼくがプロ野球記者として沖縄へキャンプ取材に行くようになったころ、ひめゆりの塔の隣接地に開設された。
当時、日刊ゲンダイの先輩に「ああいうところには一度行っておいたほうがいいぞ」と言われたのを覚えている。

ぼく自身、この資料館ではひめゆり学徒隊の生存者の方々が語り部になり、沖縄戦の悲劇の模様を見学者に対して直接話してくれる、ということに興味を抱いていた。
しかし、ぼくは宮崎でキャンプを行う巨人担当で、沖縄へ取材に行く日数が限られており、足を運ぶ機会を逸しているうち、語り部の方々の高齢化によって、2004年以降は彼女たちのスピーチが行われなくなってしまった。

今年(2015年)は戦後70周年に当たることから、衛星放送の映画専門チャンネルでひめゆり学徒隊を扱った映画が繰り返し放送されており、2本ほど録画して見てみた。
が、いずれも若くして死んだ少女たちの悲劇性ばかりを強調したメロドラマになっており、現実にはどのようなことが起こったのか、いまひとつわかりにくい。

沖縄戦とひめゆり学徒隊について、きちんと事実に即して作品化している映画はないか。
ネットで検索していた8月22日の夜、この長篇ドキュメンタリーの存在を初めて知った。

しかも、戦後70年企画の一環として、翌日23日、一日だけ池袋の新文芸坐で上映されるという。
何を置いても見に行かなければならない、と思った。

監督の柴田昌平氏はNHK沖縄放送局、報道局特報部を経て独立したドキュメンタリー作家。
2004年にひめゆり平和祈念資料館のリニューアルにプロデューサー兼コーディネーターとして関わり、このリニューアルを機に元学徒隊のスピーチが取りやめになったことから、彼女たちへのインタビューをドキュメンタリー映画にまとめようと考えたという。

開巻、沖縄戦の記録映像とともに、ひめゆり学徒隊に関する説明がテロップで流れる。
学徒隊が看護師として従軍した病院壕がどこにあったか、現在の沖縄本島上空からのヘリコプター撮影で位置を示したのち、元学徒隊の語り部が壕の入り口へと見る者を案内する。

彼女たちの最初の仕事はこの壕を掘ることで、その数は実に40本にも上ったという。
そして、この壕の中で彼女たちは何を見、何を経験したのか、予期していたこととはいえ、彼女たちが滔々と語る内容は実に凄まじい。

「兵隊さんの身体に蛆が湧くと、包帯の下からすごい音がするんです。
ある兵隊さんは顎から顔の半分が蛆に覆われて、それを一つ一つ取っていくんですが、耳の穴の中に入り込まれると、兵隊さんが痛くて声をあげるんですね」

「わたしだけ壕の外に出たら、ドーンとすごい音がして、振り返ったら、さっきまで一緒にいた○○さんがたたきつけられて、もう、顔がないんですね。
兵隊さんの胴体だけが下にあって、首も、手足もない」

「周りに砲弾が落ちて、そばにいた兵隊さんを見たらね、頭が割れて、脳みそが飛び出ていて、腹も割けてね、はらわた、臓物が飛び出してしまっている。
ただ、そういうときって、不思議と涙は出てこないものなんですね、ただ呆然としてしまうだけでね」

「バババババッって銃声がしたと思ったら、わたしの隣りにいた○○さんがもう死んでるんですね。
後ろにいた○○さんも、こうもたれかかってきて、やっぱり死んでる。

「隣りにいた○○さんも、前にいた兵隊さんも死んで、だから周りで4人の人が死んでるんです。
そこにガス弾を投げ込まれて、意識を失って、(意識を取り戻したのは)3日後で、それから4日間飲まず食わずでそこにいたんですけど、そのときには死体がパンパンに膨らんじゃって…」

元学徒隊の語り部たちは、ただ証言しているだけではない。
実際に多くの友人が死体となって転がっていた壕の中や海辺の岩場に腰を下ろし、「ここで死んでいた」「あのへんが血の海だった」と、身振り手振りを交えて説明するのである。

軍国主義教育による「鬼畜米英」像が刷り込まれていた彼女たちの中には、あらかじめ渡されていた手榴弾で自決した人も少なくなかった。
しかし、一度は自決しようとして思いとどまった人もいる。

「これで死のうと決めて、○○さんが手榴弾のピンを抜こうとしたとき、そのそばにいた○○さんが言ったんですよ。
死ぬ前にもう一度、お母さんに会いたい! お母さんの顔を一目見てから死にたい! って。

そのときは、わたしも思い出しましたね、いつも顔を汗でびっしょりにして働いていたお母さんの顔をね、そう思うともう、誰も手榴弾のピンを抜けない。

そうしたら、仲宗根(政善=当時の引率教官、のち琉球大学教授)先生がその手榴弾を寄越せと言われて、受け取ってポケットに入れられて、みんなで堀の外へ出て行ったんですよね」
(※覚え書きなので文言は必ずしも一字一句正確ではない)

以上の証言はこの映画のほんの一部である。
柴田監督は平和祈念資料館のリニューアルに先立つ10年前、1994年から収録を開始、22人の語り部たちに合計100時間以上のインタビューを行ったという(うち3人は本作の公開を前に亡くなった)。

編集に当たっては質問者の声を極力排しており、合いの手が聞こえる部分は2カ所しかない。
全篇に渡ってこちらの耳に入ってくるのは元学徒隊の語り部たちが滔々と語る肉声だけ、という単純にしてドキュメンタリーの見本のような手法に貫かれている。 

観ている間は泣かなかった、というより、呆然としてしまい、泣けなかった。
ただ、こうして思い出しながら書き起こしていると、ふと瞼に熱いものが湧いてくる。

沖縄戦の残酷な経験を語る元学徒隊の証言は非常に明瞭な一方で、自分たちだけが生き残り、死んでしまった学友たちに申し訳ない、という悔悟と含羞に満ちている。
だからこそ、彼女たちは死んだ人間たちのぶんも生き、犠牲者たちの無念と悔しさを語り継いでいかなければならない、それが自分たちの使命であり、精いっぱいの供養なのだと語る。

生きるということはどういうことなのか。
映画に収められた証言を反芻しているうち、そういう根源的な問いかけが自分の頭の中で膨らみ、なかなか明確な答えを出すことができない。

オススメ度A。

旧サイト:2015年08月24日(月)Pick-up記事を再録、修正

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スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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