BS世界のドキュメンタリー『ディカプリオ 挑戦の軌跡』(NHK-BS1)😉

Leonard Dicaprio: Most wonted!
49分 2021年 フランス=BROADVIEW TV/ARTE G.E.I.E
NHK-BS1再放送:2023年5月4日PM1:00

いまや「ハリウッドで最も成功した俳優のひとり」と言われるレオナルド・ディカプリオの半生記。
母親が妊娠中にレオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画を見ていたとき、お腹の中を蹴ったのでレオナルドと名付けたという出生にまつわる有名なエピソードから、数々の秀作、話題作に出演し、様々な苦悩や葛藤を経て今日の地位を築き上げるまでが描かれる。

16歳からCMやテレビドラマで注目されるようになっていたころ、最初の転機となったのがロバート・デニーロと共演した『ボーイズ・ライフ』(1993年)。
当時18歳だったディカプリオを主役に抜擢したマイケル・ケイトン・ジョーンズ監督は、その理由をこう語っている。

「向こうみずで、自惚れ屋で、自分は最高にイケてると思っている俳優がほしかった。
でも同時に脆さを感じさせるところも必要で、レオナルドはまさにピッタリだった」

この作品でデニーロの薫陶を受けたディカプリオは、続いて『ギルバート・グレイプ』(1993年、ラッセル・ハルストレム監督)で知的障害を持つ少年アーニー・グレイプ役に挑戦。
19歳にして翌94年アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされ、ますます評価を高めた。

さらに、『太陽と月に背いて』(1995年、アグニェシュカ・ホランド監督)では、ポール・ヴェルレーヌに愛された若き天才詩人アルチュール・ランボーを熱っぽく、かつ巧みに演じて新たな一面を見せる。
興行的には失敗したそうだが、本作における鮮烈な演技はディカプリオが同性愛者ではないかという根強い噂にもつながった。

その後、シェークスピアの原作を現代に翻案した『ロミオ+ジュリエット』(1996年、バズ・ラーマン監督)のロミオ役を経て、伝説的名作『タイタニック』(1997年、ジェームズ・キャメロン監督)で大ブレイク。
映画1本あたりのギャラが2000万ドルまで高騰した当時、ディカプリオは俳優仲間と〈プッシーポッセ〉と呼ばれる〝女たらしグループ〟を結成し、ロサンゼルスの夜の街で羽目を外している姿をパパラッチに撮られることもあった。

ハリウッドのセレブの頂点に立ち、人目や評判を気にするようになったディカプリオは、ジャーナリストのインタビューも極端に警戒するようになった。
取材を申し込んだメディアはホテルの一部屋だけでなくワンフロアを貸し切らなければならず、至るところに警備員が立っていて、代理人のいる部屋に通されてあれこれ聞かれたのち、やっと本人と対面できるのだという。

この時期、ディカプリオが『セレブリティ』(1998年、ウディ・アレン監督)で、そんな自分を皮肉るような役を自ら望んで演じていることが、彼の複雑な内面を覗かせているようで興味深い。
そうした中、マーティン・スコセッシ監督と組んだ『アビエイター』(2004年)で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされ、ディカプリオは本格的な俳優として賞レースに復帰する。

しかし、ディカプリオが『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)で悲願のオスカーを獲得するまでは、『アビエイター』からでも11年、最初の天気となった『ボーイズ・ライフ』からは22年もかかった。
「自らの望みを叶えた者は、神の試練にさらされなければならないんだ」とは、ディカプリオがマイケル・ケイトン・ジョーンズに語った言葉である。

オススメ度B。

A=ぜひ!🤗😱 B=よかったら😉 C=気になったら🤨  D=ヒマだったら😑

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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