最後の「父の日」、父親に言われたこと

実家の前で咲いていた白い彼岸花

広島県竹原市の実家の前で、珍しく白い彼岸花が咲いている。
一昨日の夕方、下校途中の中学生たちが彼岸花の前で足を止め、「これに願い事をすると叶うんだって」という話をしていた。

ネットで調べると、なるほど、確かに昔からそんな言い伝えがあるという。
こういう子供たちの生の声を聞くことができるのが、竹原のような小さな町のいいところかもしれない。

もし白い彼岸花の伝説が現実になるのなら、僕にも叶えてもらいたい願い事がひとつある。
もう一度、父親とふたりだけで直接言葉を交わした6月19日、「父の日」に戻りたい。

「末期の水だけ、取ってくれりゃあええ。
間に合わんかったら、しょうがない」

「父の日」の夜、実家の居間で、父親はそう言った。
結局、そのときが、父子ふたり、差し向かいで会話した最後の機会になった。

あの夜、父親は、それまでなら決して息子に打ち明けなかっただろう、自分の人生に起こった酷薄な出来事について語った。
あくまでも父親らしく、僕の先行きを心配することも、最後まで忘れなかった。

そのころ、母親は6月から何度目かの入院中だった。
父親より4歳年下の母親は、一昨年に父親が入院していた最中、ひとりでいた実家で転倒し、父親と同じ病院に救急搬送され、以来、入退院を繰り返している。

今年は年末年始以降、僕は3月、5月、6月と時間を作っては両親の様子を見に帰省しているが、最後に家族3人がそろって団欒できたのは5月の数日だけだ。
その5月、親子3人が一緒にいられる機会はもう多くはない、と悟っていたのか、父親はみんなで一緒に賀茂川荘へ行こう、と提案した。

父親と一緒につかった温泉で、すっかり痩せ細った背中を流したことが忘れられない。
その後、6月から入院していた母親が、7月に退院して実家に帰った。

7月初旬、久しぶりに両親がそろっている実家へ帰ろうとしたら、父親は「その必要はない」と、ガラケーの向こう側で何度も僕を押し留める言葉を繰り返した。
その父親が、約1カ月後の8月2日、熱中症で救急搬送された。

このときもまだ、携帯電話ではある程度、まともな会話を交わすことが可能だった。
が、徐々に声がくぐもって聞き取りにくくなり、父親は自分でもそれを自覚しているのか、一際大きな声で話すようになる。

さすがに心配でならず、ケアマネジャーの勧めもあって、9月2日に竹原へ帰ることにした。
父親のガラケーに「9日までいるから」と伝えると、「ありがとう」と答えた声に、すでに父の日ほどの力が感じられない。

その翌日だったか、翌々日だったか、いまとなっては記憶が曖昧なのだが、父親の入院している病院で主治医に会い、現状と今後の治療方針について、説明を聞いた。
コロナ禍対策のため、父親には直接会えないので、リハビリ担当の療法士に最近の父親の寝起き、歩行リハビリの動画を見せられ、5月よりもさらに衰えた姿を目の当たりにしたときは、正直、言葉を失った。

9日に帰京する予定を12日に延ばし、その日まで毎日のように父親のガラケーに電話して、一度だけ病院のロビーでタブレットで面談した。
この形式は患者側に看護師が付き添っているため、ざっくばらんな会話がしにくく、画面の向こう側の父親はさらに一層痩せ細っていた。

12日の朝、広島空港に向かう直前に電話して、「これからいったん帰るけんね」と伝えた。
すると、父親は「気をつけてな」と答えてから、声を振り絞るようにして言った。

「こちらからは、何もありません!
以上です!」

それが、父親から聞いた最後の言葉になった。
翌13日、主治医から電話があり、父親の容態の急変を告げられたのは、東京の自宅で朝食を摂っていた朝9時半ごろだった。

菩提寺の照蓮寺へ墓参りに向かう父親(2015年暮れ撮影)
スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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