僕は「3.11」の被災地から逃げ帰った

2011年4月24日、気仙沼にて

毎年、3月11日が巡ってくるたび、あのころ、出版社に原稿を依頼され、被災地を取材して回ったことを思い出す。
最初は東日本大震災が発生してから1カ月余のちの4月16日から、3泊4日で釜石市を訪ねた。

まだ新幹線が不通だったため、飛行機で羽田から発着可能になった仙台空港へ飛び、そこでレンタカーを借りて、担当編集者、フリーカメラマンとともに釜石へ向かった。
カメラマンの運転する車が釜石市内に入った夕暮れどき、それまでごく普通の家並みや田畑が広がっていた眼前の光景が、突然倒壊した建物と瓦礫の山と化した瞬間の衝撃は忘れられない。

津波による被害は、津波に覆われたところと、寸前で津波にさらわれずに済んだところとが、あまりにも鮮やかに、ある意味では残酷なほどに分断されている。
家族もろとも流されてしまった家のすぐ近くに、少なくとも一見した限りでは傷ひとつなく、そこに暮らす家族も被害を免れた家が建っているのだ。

その夜、さっそく自立支援センターとなっている公民館に足を運び、被災者たち、被災を免れて手伝いに来ている地元民、東京から来たというボランティアの若者たちに話を聞いて回った。
写真、アルバム、手紙など、瓦礫の中から持ち出された家族の思い出となる品々も見て写真に撮った。

牧場を経営している地元民はボランティアの若者について、「熱心にやってくれるのはいいんだけど、熱心にやり過ぎて寝込んじゃう人もいるんだよね」と話した。
被災地に来ると、想像を絶する惨状にショックを受け、とにかく何かしなければという使命感に囚われるのか、瓦礫の片づけや遺体の発見に必死になるあまり、自衛隊員と口喧嘩までするボランティアもいたという。

「自衛隊は夜になると二重遭難とかしないように駐屯地へ帰るんだけど、ボランティアはなんで帰るんだ、生きてる人が死ぬかもしれないだろって怒っちゃうんだよな」と牧場主は言った。
そうしたことが続くうち、肉体的な疲労に加えて、精神まで病んでしまう若者が増えていたのだそうだ。

そういう若者が見てはいけないものを見て食事も喉を通らなくなってしまったため、地元民たちは彼らが食べやすいスパゲティのような料理を作ってくれる料理人を、わざわざ東京から呼んでいる。
ボランティアのためのスパゲティを作るにはどのような食材と気遣いが必要だったか、僕はその料理人にも話を聞いた。

翌日から、浜千鳥の醸造所、原生林の奥にある鉱山と水源地に行き、震災発生当時の様子と現状について取材した。
釜石市内には泊まれるホテルがなかったため、取材を終えると、編集者が取ってくれた花巻市のホテルへ行き、カメラマンと3人で同市内の居酒屋へ行った。

広い店内にいる客は僕たちだけで、せめてこういうところに金を落としていこうと、地酒を飲みながら地元の名産品をたくさん注文して舌鼓を打ったはずだが、何を食べたのか、まったく記憶していない。
ただ、3人分の勘定が1万円にも満たず、誰かが「こんなに安くていいんですか」と店員さんに聞いたら、「このへん(の相場)はこんなもの(金額)ですから、また来てくださいね」と言われたことだけは覚えている。

いったん帰京してから、4月23日と24日、今度は気仙沼へ取材に出かけた。
目的は牡蠣の養殖家として知られている畠山重篤さんのインタビューである。

津波で母親を亡くしたばかりの畠山さんは、僕たちを船に乗せて海上の養殖場を案内しながら、岸壁に連なる家々の被害の状況について説明してくれた。
食物が尽き、電気、ガス、水道と、すべてのライフラインが止まったとき、どのような状態に置かれていたか、生々しい現実を事細かに語っていた息子さんの表情も忘れがたい。

陸に上がってからの取材の合間、倒壊した家屋の前でしゃがみ込んでいる女性がいた。
目が合ってもかける言葉がなく、会釈だけしてその場を立ち去ろうとしたら、風体から僕が取材で来ていると察したらしく、「東京から来られたんですか」と女性が聞いてくる。

僕が自分の仕事を説明し、「このあたりにお住まいだったんですか」と聞くと、「ここが私の家です」と目の前の崩れ落ちた家を指差した。
そこからの会話がどうしてそういう流れになったのか、よく覚えていないのだが、マスコミの被災地取材がSNSで批判の対象になっているという話題になった。

僕「例えば、記者やアナウンサーが被災者の方に、いまどんなお気持ちですかって聞いている場面がテレビに映るでしょう。
そんなこと聞くんじゃない、悲しいに決まってるだろ、という人がいるんですよね」

女性「そうですね、でも、私たちは案外、被災した者同士でそういう話をする機会がないんですよ。
知り合いや近所の人と、うちはお父さんを亡くしてね、という話をしようとしても、相手の人は、お父さんもお母さんも死んでたりしますから。

だから、取材に来られた方に、どんなことがあったんですかと聞かれると、私はむしろ、せっかくだから胸にしまっている話を聞いてほしいです。
そういう人もいると思いますよ」

会話の最後に、女性は「いい記事を書いてください」と言って立ち去った。
しかし、このときの会話が仕事の原稿になることはなかった。

畠山さんのインタビューを終えたあと、僕たち3人は気仙沼で最も被害の大きかったところへ戻り、また取材と撮影を続けた。
夢中でシャッターを切っていたカメラマンが、不意にその手を止めて言った。

「これだけ写真を撮っても、いま僕たちが立っているこの場の実感や雰囲気を伝えることはできないんですよね。
撮れば撮るほど、写真の限界、自分の仕事の限界を感じます」

そんなとき、倒壊した家屋の床下を覗き込んでいる女性同士の会話が聞こえてきた。

「見つかったあ?」

「ダメだ、見つかんね。流されたのか、フカに食われちまったのか」

彼女たちは、自分の夫の遺体を探していたのだった。

気がついたら、僕も精神を病みつつあった。
いつの間にか、見てはいけないものを見てしまい、聞いてはいけない話を随分聞いて、瓦礫に囲まれた中に立っていると、得体の知れない災厄の気配に飲み込まれそうな気がして、いたたまれなくなった。

本当はその夜、気仙沼のホテルに泊まるはずだったが、僕たちはカメラマンの運転する車で東京へ帰ることにした。
編集者がキャンセルの電話を入れたホテルのフロントはキャンセル代を要求せず、「また来てください」と話していたそうだ。

仕事を済ませたから帰ったのではなく、逃げるようにして帰ったのだという自覚があった。
そんな自分が恥ずかしく、情けなかった。

釜石ではSNSに何度かアップした画像も、最後は上げられなくなり、「帰ります」とつぶやいた。
すると、気仙沼をはじめ、宮城や岩手の方々から、ツイッターを通して意外なリプライが寄せられた。

彼・彼女たちは「むしろ画像をアップしてもらい、何を取材したかを伝えてほしい」と言っていた。
僕みたいな人間にこそ、「何を聞き、何を見たかをちゃんと書いてほしい」と。

帰京してから、僕は自分が取材したことを400字詰原稿用紙60枚程度の原稿に書いた。
被災地の食と水をテーマにした記事は、ある出版社のムックに掲載されたが、取材に応じて頂いた方々を除いて、どれだけ被災者の人々の目に触れたかはわからない。

僕はその後も、巨人の主催試合が行われた福島や仙台へ取材に行くたび、できる限り被災地に足を運んだ。
福島では、糸井重里さんをはじめとする〈ほぼ日〉のスタッフの取材に同行し、原発事故を逃れて避難した方々の話を伺う機会にも恵まれた。

盛岡で被災した広島の高校時代の同級生を訪ね、海岸線の状況を見て回ったこともある。
彼の母親は被爆者で、「もし福島の人たちが避難してきて、会うことがあったら、絶対に差別してはいけない」と言われた、という話が印象に残っている。

しかし、いま、こうして当時の自分の行動と足跡を振り返っても、結局は何もできなかった、という思いばかりが込み上げてくる。
東日本大震災で亡くなられた方々に謹んでお悔やみを、いまも避難生活を続けている方々、家族を失われた方々に衷心よりお見舞いを申し上げます。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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