時の首相を退陣に追い込むきっかけとなった立花隆の『田中角栄研究-その金脈と人脈』はいかにして月刊誌・文藝春秋1974年11月号に掲載されたのか。
日本の雑誌ジャーナリズム史上に残る傑作が世に出る過程と、その後の社会的影響を、当時の担当編集者や同世代のノンフィクション作家の証言によって再現した番組。
実はこの傑作ルポルタージュ、一度は週刊現代でスタートしていながら突如打ち切りになってしまい、文藝春秋の編集長・田中健五に「何か面白いネタはないか」と聞かれた立花が、「他誌でポシャったんですが」と売り込んだところから始まった。
このとき、〆切まで僅か1カ月しかない中、編集部員やフリーのスタッフが集められ、大宅文庫で田中角栄に関する雑誌の関連記事のコピーを取る地道な作業から調査開始。
さらに、総務省で田中関連の政治資金報告書、全国各地の法務局で会社・土地登記簿を集めて回り、角栄の金脈と人脈を隈なく洗い出していった。
インターネットが普及し、パソコンで検索することも容易にできるようになった現代いまでこそ、公文書の検索から調査を始めるのはごく当たり前の手法となっているが、この時代はスタッフがいちいち足を運び、資料を閲覧してはコピーを取り、その束を立花の元に運ばなければならなかった。
『田中角栄研究』のリードを書いた担当編集者・斎藤禎によると、立花はそうした資料に目を通し、原稿用紙の裏側に細かな図を描いては沈思黙考を続け、最初の〆切が過ぎてもなかなか原稿を書き出そうとしなかったという。
このとき、原稿の中身は立花の頭の中にしかなく、どういう原稿ができるのかは誰にもわからない中、ひたすら待ち続け、いざ立花が書き始めたら、最後のほうは手が痛くて書けなくなってしまった、という斎藤の証言が迫真のリアリティを感じさせる。
一方、編集長の田中は、立花の原稿を抱き合わせで掲載するべく、同世代のノンフィクションライター児玉隆也に、角栄の後援政治団体・越山会の金庫番だった佐藤昭に焦点を当てた『淋しき越山会の女王』という原稿を依頼。
これもいまでは政治ルポの古典となっているこの作品を載せようと考えたのは、田中・自民党サイドに対して、カネではなく女の問題を探っていると思わせ、立花の取材活動をカムフラージュするためだった。
こうして文藝春秋11月号が発売された直後、角栄サイドをはじめ、日本の新聞ジャーナリズムがほとんど無視したことにもしっかり踏み込んでいる。
首相秘書官だった小長啓一はインタビューに答えて、「とくに目新しいことは書かれていない」という印象しか受けなかったと話し、角栄もとくに動揺した様子は見せていなかったと、事態を楽観していたことをあっけらかんと証言。
それが外国特派員協会における角栄の記者会見以降、主としてアメリカの有力紙に大きく取り上げられ、日本の大新聞も渋々腰上げた様子など、いまでは間が抜けているようにも見えて何となくおかしい。
なお、立花はこのとき34歳、田中編集長は46歳、角栄は54歳と、主要登場人物が全員いまの僕より年下だったことには改めて驚きました。
オススメ度A。