【きょう21日発売】東京スポーツ『赤ペン!!』364

日本ハムを自由契約になり、DeNAへの移籍が決まった大田泰示は、来年2度目のブレークを実現できるのか。
これ、日本ハムやDeNAのファンだけでなく、大田が最初に入団した巨人のファンにとっても興味深いテーマだろう。

振り返れば、大田はこれまで、随分と数奇な野球人生を歩んできた。
東海大相模高3年だった2008年、一度は東海大進学を表明しながら、ドラフトの約2週間前に突如プロ志望届を提出。

巨人とソフトバンクが1位指名して競合し、高校の先輩・原監督が珍しく当たりクジを引いた。
ちなみに、原監督のドラフトにおけるクジ引きの戦績は1勝11敗で、唯一の1勝が高校の後輩の大田だったのだから、これは相当深い縁があると、本人たちや周囲の関係者が思い込んだとしても無理はない。

巨人は松井秀喜氏の後継者に育てようと、背番号55を大田に与えた。
ひょっとすると、これが大田が伸び悩むことになった最初の要因だったかもしれない。

実は、背番号55は当時の球団代表が言い出したアイデアだった。
原監督はのちに、「長嶋さんの3と僕の8を合わせた38をつけさせたかった」と明かしている。

大田は寮でも松井氏が入っていた部屋をあてがわれ、周囲に「ゴジラに追いつけ、追い越せ」とあおられる。
これがプレッシャーになったのか、プロ入りしてから1年、2年、3年、4年とたっても一軍に定着できないまま。

そして迎えた5年目の13年、原監督と親交のある意外な人物が大田を高く評価した。
「いますぐにでも大田を連れて帰りたい」というこの人物の申し出を、原監督と大田が受けていれば、その後の大田の運命はまったく変わっていたに違いない。

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スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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