記者のひとりごと『監督の差』

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○心斎橋総合法律事務所報『道偕』2003年10月号掲載

阪神を辞めさせられた野村監督がテレビでぼやいていた。
「今までいろいろなチームに携わったが、あんなに扱いにくいところは初めてだった。私の言うことが通じない」。そんな嘆きだった。

ところが、代わった星野監督は就任2年目にして優勝を成し遂げた。
指導者が代わっただけで、チームはあれほどまでに劇的な変貌を遂げるのか。両者の力量にそれほどの差があるのか。多くのファンが抱いた疑問だろう。

私の考えでは、監督の力量に差はなかった。ただし野村のほうが星野よりも敵を作り過ぎた、というものだ。失礼な言い方をすれば、野村のほうが生き方が下手だった。
「顔にやる気が見られない」と今岡を印象批評し、公私混同と批判されるのも構わず息子のカツノリを引き取って使った。

マスコミとの対応もうまくなかった。勉強不足の記者を許さず、初対面の相手には概して無愛想だった。彼の発想の根底には「自分の頭で考えろ」があり、これは至極当然のことなのだが、つき合いの浅い相手にはなかなか伝わらない。
例えば、初対面の記者に「ボールカウントは計何種類あるか」といきなり聞く。答えられないと、即勉強不足となる。

その点、星野はうまい。選手にきついことを言うが、フォローがきめ細かい。選手や裏方さんの家族の誕生日を把握しており、心配りを忘れない。
報道陣にも強面で接するようでいて、ある記者に「1対1のとき、監督に『あれっ、俺のことをよく知ってるな』という対応をされ、感激した」と告白させたように、人の心をつかむのがうまい。

この違いに加え、マスコミに長年甘やかされてきた阪神という球団には、自主性に働きかけて成長を促す手法は効果が薄い、ということを野村が最後まで認めようとしなかった点も悲劇を招いたと言えよう。
星野は初めから「俺についてこい」のスタイルに徹した。フロントにも金を出させ、実力者ぶりを見せつけた。これが奏功した。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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