昔々、男子バレーボールは強かった🏐

  2008年北京五輪 男子バレーボール日本代表監督・植田辰哉インタビュー記事①
セオリー・ビジネスVol.4 講談社 2008年7月25日発行

世界ランキング11位の男子バレーボールがきのう、4大会29年ぶりの決勝トーナメント進出を決めた。
1次リーグA組最終戦は同12位のイランにフルセットで競り勝ち、3勝2敗で3位通過。

明日13時に行われる準々決勝の相手はブラジルは世界ランキング1位、かつ2004年アテネ五輪以降、金、銀、銀、金と4大会連続メダルを獲得している世界一の強豪国だ。
圧倒的不利は否めないものの、どこまで食い下がれるか、期待を持って見守りたい。

1963年、広島に生まれて、小学3年生だった1972年、ミュンヘン五輪で男子バレーボールが金メダルを獲得したことを鮮明に記憶している僕は、ある意味、「バレーボール世代」である。
まだ1歳8カ月だった1964年、前回の東京五輪で金メダルに輝いた女子バレーボールはさすがに見ていないが、「東洋の魔女」に関する知識は小中学時代に学習雑誌やテレビ番組などで散々刷り込まれた。

僕を含めて、当時の広島の小中学生たちは、どこの学校でも休憩時間や放課後にバレーをやっていた。
クラブ活動としてではなく、授業のあとで遊ぼうと何人か集まったら、ごく自然に2チームに分かれてバレーをすることが習慣になっていたのである。

専用のネットが張られたバレーコートは限りがあったから、そちらが埋まっていると、キャスターのついた移動式ネットを横倒しにして、その両サイドを即席のコートにした。
それほど誰も彼もバレーをやっていたのは、ミュンヘン五輪の優勝メンバーのひとり、猫田勝敏さんによる啓蒙活動の効果が大きかったと思う。

猫田さんは広島(広島市安佐南区古市)出身で、五輪のあと、広島県の小中学校にボールを寄付し、生徒たちに努力することの大切さを説いて回った。
僕が通っていた長束小学校にも来られて朝礼でお話をされていた姿はいまも覚えている。

そういう自分が高校進学後、次第にバレーから離れていったころ、男子バレーもかつての強さを失っていた。
オリンピックも1992年バルセロナ大会以降、いったん出場できなくなり、長らく予選落ちが続いている。

それから長い時が流れた2008年、植田辰哉監督率いる日本代表が、実に4大会16年ぶりに北京五輪出場を決めた。
北京五輪世界最終予選兼アジア予選でフルセットの末にアルゼンチンを破り、オリンピックへの切符を掴んだ瞬間、コート上にうつ伏せに倒れ込んで号泣。

  2008年北京五輪 男子バレーボール日本代表監督・植田辰哉インタビュー記事②
セオリー・ビジネスVol.4 講談社 2008年7月25日発行

さらに、試合後のインタビューでは、ミュンヘン五輪で監督を務めた松平康隆さんを「おじいちゃん」、当時のエースアタッカーでバルセロナ五輪の監督だった大古誠司さんを「お父さん」と呼んで感謝の意を表明。
長らくオリンピックの大舞台から遠ざかっていたものの、〝ミュンヘンの遺伝子〟は脈々と続いていたんだな、と伊豆大島でテレビ中継を見ながら感慨に耽ったものです。

だから、講談社のムックの仕事で、植田監督にインタビューする機会を得たときはうれしかった。
北京へ行く前、直前合宿中のナショナルトレーニングセンターを訪ね、プレッシャーやストレスの克服法、選手との付き合い方やチーム・マネジメントの秘訣などについて、非常に興味深いお話をうかがいました。

その植田監督が残念ながら0勝に終わった北京から13年、中垣内祐一監督が率いる今回は決勝トーナメント進出を果たした。
元エースアタッカーが指揮する日本代表がどんな戦いを見せるか、こちらも気を引き締めて応援したい。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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