悼む 「日本ハム・大島康徳」の背番号は11だった

1990年2月、鴨川キャンプにて(筆者撮影)

元中日、日本ハムの大島康徳さんが6月30日に70歳で亡くなっていたことが、きょう明らかにされました。
先月、大腸がんが肝臓に転移し、入退院を繰り返していることを自身のブログで報告されていたので、来るべきときが来てしまったか、という思いでいる球界やマスコミの関係者は多いはず。

僕もある程度予期していたとはいえ、いざ現実に亡くなられてみると、70歳という年齢はあまりに若い。
とくに大島さんの場合、現役時代はどちらかと言えば、頑丈、強面、豪放磊落なホームランバッターというイメージが非常に強かっただけに。

僕が初めて大島さんを取材したのは、1990年2月、鴨川で行われていた日本ハムのキャンプ。
そのとき、自分で撮った写真のプリントを見て改めて思い出したのですが、大島さんの背番号はのちにダルビッシュ有、大谷翔平に受け継がれる11番だった。

僕が取材で訪ねた日、鴨川はあいにくの雨で、練習はもっぱら室内練習場やトレーニングルーム。
大島さんはウエートトレーニングに一際熱心で、チームメートのベンチプレスに手を貸したり、僕たち記者にもダンベルや鉄アレイをつかませて使い方を教えたり。

バーベルを持って報道陣の誰かをアシスト(同上)

練習の合間には若菜嘉晴さん、角盈男さん、柴田保光さんら同世代のベテラン選手と冗談を飛ばし合い、雨でいまひとつ盛り上がらない一日を和ませてくれたものです。
当時は残念ながら、野球に関してそれほど深い話を聞くことはなかったけれど、のちに解説者や監督となってから、大変緻密な野球観、豪快なイメージとは裏腹に繊細な性格の持ち主であることを知りました。

いまごろは大島さんが尊敬していた星野仙一さんと天国で野球談義をしていることでしょう。
謹んでご冥福をお祈りします。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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