1968年にフランス、アメリカ、日本で巻き起こった若者たちの反逆と体制批判のムーヴメントを巨視的に捉え、50年後の2018年にどのような影響を及ぼしているか、改めて検証を試みようとした野心的大作。
本作を監督したのはイギリス人のドキュメンタリー作家ドン・ケント(ナレーションの吹替・古谷一行)という人物で、彼がパリの映画学校に留学していた1968年5月に遭遇した五月革命が本作を撮る大きな動機のひとつになったという。
同じ年、アメリカでは「愛と平和」を謳うヒッピー文化が花開き、ベトナム戦争反対を訴えるデモが各地で発生、ミシシッピ州の人種差別反対運動とも相俟って、全米規模で国民の怒りが沸き起こりつつあった。
徴兵を拒否してタイトルを剥奪されたボクシング世界チャンピオン、モハメド・アリの映像も使用されており、「何のために彼ら(ベトナム人)を殺すのか? 彼らは俺を決してニガーと呼ばないのに」という有名なコメントがいま聞いても強烈だ。
いまにして意外に感じたは、ケント監督の故郷イギリスの若者たちは政治や戦争に興味がなく、日本でいう暴走族やチーマーのような徒党を組み、互いに争って怒りを発散させていたというくだり。
トレンチコートにベスパがトレードマークの〈モッズ〉、黒い革ジャンでオートバイを乗り回していた〈ロックローラー〉の凄まじい抗争と、彼らの刹那的な心情はザ・フーがロック・オペラ『四重人格』(1973年)で歌い上げ、のちに『さらば青春の光』(1979年)として映画化もされた。
日本での体制批判のムーブメントと言えば、やはり1969年の新宿騒乱や東大安田講堂に象徴される学生運動だろう。
歴史家・社会学者である小熊英二のインタビューによると、その最初の発火点となったのは1967年10月、時の首相・佐藤栄作の南ベトナム訪問に反対する抗議運動の最中、ひとりの学生が死亡したことにあったという。
この事件によって、死んだ学生は古い体制や日米の帝国主義に反逆の狼煙をあげた同世代の代表的ヒーロー、全国に広がる反体制運動のイコンとなり、感化された学生たちが次から次へと雪崩を打って学生運動に走った。
それから50年後の現在、当時運動に参加したほとんどの学生は、死んだ学生の人物像、佐藤首相に対する抗議運動の背景などについて何も知らず、ただ感情的に、ひたすら闇雲に学生運動へ傾斜していった、と小熊は極めて冷静に解説している。
新宿騒乱が巻き起こったころ、フォークゲリラとして活動していた大木晴子は、本作の撮影当時も新宿駅構内で「戦争反対」のプラカードを掲げて立っている。
しかし、自分の目の前を通り過ぎてゆく人々の目線は一様に冷たく、無関心に見え、「まだ半世紀も経っていないのに私たちは何を忘れてきたのかと悲しく思う」と大木は言う。
一方、現代にももっと平和的な形で政府に異議を唱え、デモを主導している〈シールズ〉のような学生運動グループもある。
創設者の奥田愛基は安倍政権が強行しようとした憲法改正、とりわけ第9条の廃止に対し、「憲法は政府と国民との約束事なのだから、国民を抜きにして決めないでほしい」と訴えた。
しかし、そうしたムーブメントが結局、体制を覆したり、社会に変革をもたらしたりできないのは、つまるところ、「この種の運動は2カ月程度しか続かないからだ」と先の小熊は喝破する。
実際、東大の学生が安田講堂を占拠した運動も、ケント監督の脳裏に刻み込まれたフランス革命も、アメリカの至るところで発生した戦争や人種差別に反対するデモも、大抵は2〜3カ月で収束しているという。
にもかかわらず、なぜ人間は時々、まるで断続的に続く火山活動のように世界各地で体制に抗い、溜め込んでいた怒りを噴出させるのか。
本作を観ているうちに湧き上がってくるそうした問いには、観る側がそれぞれに答え出すべきなのだろう。
大変示唆に富んだドキュメンタリーであり、〈シールズ〉創設者・奥田愛基が言うように、「1960年代の人たちをバカにしてはいないし、そうかと言って尊敬もしていない」視点による語り口には説得力もある。
ただし、世界全体が新型コロナウイルスのパンデミックに覆われているいま、世界中の人々が制作当時の2018年と同じような関心を抱いてこの作品を観ることができるかどうかとなると、残念ながら疑問が残ると言うしかない。
オススメ度B。