プロ野球のキャンプ取材が一段落したら、東京オリンピックの日本代表選手にインタビューすることになっている。
そのころ、開催の可否は決まっているか、どのような情勢になっているか、複雑な思いを抱いて、このドキュメンタリーを観た。
1979年、アメリカのカーター大統領がソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、自国をはじめ西側諸国に翌80年のモスクワ五輪をボイコットするように提唱。
日本でも大平首相がこれに呼応して不参加が決まった、という経緯はよく知られている。
しかし、国のトップ同士の合意(というよりアメリカへの右へ倣え)によってボイコットが決まり、上意下達でJOCが盲従した、という単純な図式で片づけられるほど、事は簡単には進まなかった。
今回、NHKが初めて世に出した当時のJOC臨時総会の速記録によると、80年5月22日に一度は五輪参加で合意していながら、2日後の同月24日にボイコットが決まっている。
いったい、このどんでん返しの舞台裏で何が起こっていたのか。
NHKが発掘した外務省の極秘文書によると、カーター大統領は同じ1980年に大統領選を控えており、国際社会でのリーダーシップをアピールするためにも、日本に五輪ボイコットを呑ませなければならなかった。
同年3月2日には、同月31日までにボイコットを正式決定してもらいたい、というアメリカ国務長官からの書簡が大平首相宛に送られている。
4月13日にはUSOC(アメリカ・オリンピック委員会)が正式にボイコットを表明しており、この時点で事実上、日本に選択の余地はなくなっていた。
同月21日、日本の各競技団体は岸記念体育館で合同記者会見を開き、柔道の山下泰裕(現JOC会長)をはじめ、当時の代表選手たちが五輪への出場を直訴した。
しかし、この会見に欠席した陸連ではすでに、文部省体育局長・梁川覚治からの根回しを受け、ボイコットを受け入れることを決めていた、と陸連専務理事でJOC委員の帖佐寛章は証言している。
柳川は帖佐を呼び出し、「まさか陸連はボイコットに反対しないだろうな」と告げたというから、根回しというより恫喝である。
それでもJOCが結論を先送りする中、最後は大平首相が日本体育協会会長・河野謙三を動かしたのだろう、と、この番組では結論づけている。
正式にボイコットが決定した臨時総会は非公開で行われ、議論の具体的な内容は明らかにされなかった。
西ドイツでは4時間以上に及ぶ政府とオリンピック委員会の議論が公開の場で行われ、選手代表のトーマス・バッハ(現IOC会長)が参加を主張する熱弁を振るい、投票によって不参加が決まったのに、何という違いだろうか。
最終的には、柴田委員長が決を取り、不参加29、参加13でボイコットが決定。
一貫して強硬に参加を主張し続けていた当時のJOC委員、漕艇(ボート)理事の広瀬喜久男も最後は不参加に回り、87歳にして「いまでも苦しんでるんだよ、だから、当時のことはあんまり話したくねえな」と目を潤ませながら語っている。
五輪に出場できなかった体操女子、竹内友佳(旧姓:日向)と津田桂(旧姓:内田)は最近、日本スポーツ学会として当時の代表選手にボイコットに関するアンケート調査を実施。
全178人中、連絡先が判明した92人にアンケート用紙を送り、うち61人から回答を得た。
そこには、政治によって五輪への出場を阻まれたアスリートたちの抗議、悔恨、憤怒の言葉が、切々と綴られていた。
とりわけ、「当時のJOCの委員の方々にも、同様の質問をしてみてはいかがですか?」という言葉が重い。
昨年3月24日、東京オリンピックの1年延期が決定される安倍総理とバッハIOC会長の電話会談の場に、山下JOC会長は同席していなかった(同席させてもらえなかった?)。
モスクワ五輪ボイコットから40年経ったいまも、スポーツと政治の距離と関係は何ら変わっていないようである。
オススメ度A。