前項・NHKスペシャル『沖縄戦 全記録』(2015年)の詳細な姉妹編に当たる本年度制作の沖縄戦ドキュメンタリー。
今回は新たに発掘された5000ページを超えるアメリカ軍の作戦報告書がベースになっている。
この資料によると、米軍は沖縄全体を四角形のマス目に分割して4桁の数字を付け、さらにそのマス目を細かく180m四方のグリッド(格子・方眼状)に区切り、そのひとつひとつにABCのアルファベット記号を付けていた。
そして、偵察機が沖縄上空から日本軍の兵士や住民を見つけると、グリッドの数字とアルファベットで標的を正確に特定し、艦砲射撃を加えるわけである。
とりわけ凄まじい砲撃の的となったのが、日本軍が首里から南部への撤退の際に通過した山川橋で、ここには1発で戦車1台を吹き飛ばせる艦砲弾が1時間100発、計5時間500発撃ち込まれた。
数え切れないほどの県民が犠牲になり、「逃げ道を作るために道の両側に死体をどけて、死体の土手ができていた」と生存者は語っている。
当時、沖縄周辺に待機した米艦隊は日本の特攻隊による攻撃で艦船30隻、兵士1万人が犠牲になっており、反撃をせずにはおかないという敵愾心に燃えていた。
「目の前でカミカゼの体当たりを受け、仲間のパイロットが死んでからは、日本人への哀れみなど一切なくなった」と、爆撃機のパイロットとして地上爆撃を繰り返した元中尉の証言である。
一方、そういう圧倒的な軍備を誇るアメリカ軍に対して、日本軍の大本営はひとりでも多く敵兵を殺し、戦力を消耗させようと「戦略持久」を打ち出す。
沖縄県民に「一人十殺」を唱えていた第32軍参謀長・長勇(ちょう・いさむ)参謀長ですら自決を唱えていた中、高級参謀・八原博通は首里から南部地域に下がって徹底抗戦を訴えた。
粘れるだけ粘って本土決戦に備えようと考えたと、戦後生き残った八原の肉声が流される。
その声と口調からは、自分がいかに現実離れした、バカバカしい作戦を立てて、その結果、南部撤退中の1カ月だけで4万6000人もの沖縄県民が死んだのだ、という事実がまったく理解できていないように思えた。
沖縄南部まで撤退を続けた日本軍と県民たちは、ガマと呼ばれる自然洞窟に隠れ、ここを司令部壕としてなお徹底抗戦を強いられる。
県民にはひとり2個、1個は攻撃用、2個は自決用の手榴弾が渡され、「もう生き残るということはまったく考えられなかった」と生存者は言う。
そうしたガマの中でも最大規模の洞窟で、兵隊と県民が一緒に潜り込むことになったのが、全長約140mの「轟壕」だった。
中心部の入口から入って右側は約50人の兵士が占有し、約800人もの県民はほぼ同じ広さの左側の空間に押し込められた。
5月下旬の沖縄はすでに本土より暑かったはずで、換気が悪く、照明も乏しかった県民用の空間は恐らく、大変な蒸し暑さ、狭苦しさ、息苦しさだったと想像できる。
本作ではその模様をCGで制作した図解で再現し、県民たちが密集状態に置かれた極限状況を生々しく伝えてくる。
これだけ県民が詰め込まれた轟壕に、アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込んで火を放つという攻撃を行った。
本作の検証によると、ガマの内部はこのとき、500℃から700℃に達し、身体の表面だけでなく、熱された空気を吸い込んだ気管支まで大火傷を負っていたものと見られるという。
食料も底を突いた中、ついには子供から黒糖を取り上げ、怒った子供を撃ち殺す兵士まで現れる。
この兵士は孫を殺されて泣き出した祖母まで目の前で打ち殺したと、このガマで生き残った女性は語っている。
終盤、九七式手榴弾で自決した人々の写真が解析され、その中の女性が「式瓦」と呼ばれる柄の高級な着物を身に纏っていたことが明かされる。
恐らく、生前は特別な機会に着ていただろうよそ行きの特別な着物を、最期の死に装束しようとしたことがうかがえる。
オススメ度A。