記者のひとりごと『平成の大横綱』

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○心斎橋総合法律事務所報『道偕』2003年2月号掲載

貴乃花が引退した。
「平成の大横綱」という最大級の表現で称えるメディアもあった。

歴代4位の優勝22度(※編者注:本稿執筆時)。
右差し、左上手の四つ相撲で寄り切る形になれば、万全の強さを誇った。

人気力士の父を持ち、女優との交際もあった。
けがの影響で引退を余儀なくされるまで大相撲人気を1人で支えた華のある力士の功績は、長く語り継がれるに違いない。

東京本社の運動部(当時)にいた10年余り前(※編者注:1992年ごろ)、貴乃花の婚約の取材を命じられたことがある。
相手は女優の宮沢りえで、若い有名人カップルの誕生に世間は大騒ぎしていた。

芸能関係の仕事をしたことがない私には荷が重く、周辺を聞き回っても面白い話はつかめない。
いい加減うんざりしていたところ、年が明けた1993年1月だったか、いきなり婚約解消ときた。

「お前はもう取材しなくていい」と言われていたので、衝撃はそうなかったが、角界と芸能界だから水と油なのかと同情した記憶がある。
貴乃花に悲劇の色調が伴い始めたのは、そのころからではなかったか。

「よく言えば個人主義者だった」と相撲担当の同僚は書いた。
裏返せば、周囲の思惑をそれほど考慮しないタイプだったといえる。

子供のころからそういう性格だったのか。
私はそう思わない。

日刊スポーツが面白い逸話を載せている。
16歳の貴花田(当時)に、今までの人生で後悔していることを聞いたところ、「中学のとき、いじめにあっていたクラスメートを助けられなかったこと」と答えたという。

感受性が鋭く、正義感にあふれた少年の姿が浮かんでくる。
そんなタイプが個人主義者になったのはなぜか。

20歳のときの婚約解消のけんが色濃い影響を及ぼしたのだろうと私は勝手な想像をする。
彼女は角界のしきたりになじめないという表向きの理由で、2人の仲は引き裂かれた。

貴乃花がそのとき学んだのは「人生にはどうにもならないことがある」という諦観だったと思えてならない。
以降の彼の人生は自分を殺すことの連続だった。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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