きのうのBlogの続きです。
特別展『桃山−天下人の100年』をじっくり見たあと、隣のフロアで開催中の特別展『日本の考古』も駆け足で覗いてきました。
こちらには縄文〜弥生時代の石器、土偶、埴輪などが展示されていて、これがまた非常に興味深い。
中高生のころの勉強ですべて知ったつもりでいたけれど、よくよく記憶を掘り起こしてみれば、観光地の店に並んでいた土産物ではなく、本物の埴輪を見たのは今回が初めてだった。
今回の特別展示の目玉として入口に置かれている埴輪で、私(身長171センチ)と同じくらい大きい。
現代の銅像のように展示用として造られたから実物より大きめに作られたのか、当時も実際にこれぐらい背丈のある女性がいたのか。
女性の全身像を表した人物埴輪としては、非常に稀で貴重なものだという。
腰に巻いているのはスカート状の裳(も)、上着は筒袖で左前合わせ、髪は島田髷、額には竪櫛を挿し、玉類を連ねた耳飾、首飾、腕飾も身につけており、祭礼用の衣裳だったのかもしれない(台座の説明書より、以下同)。
モデルとなった女性は恐らく、当時の社会では高貴な存在、もしくは宗教的役割を担っていたのではないでしょうか。
時代的背景、社会的状況が様々に想像できる埴輪ですね。
埴輪女子がお出迎えしてくれた入口を入ってすぐの左側は、今回の展示で最も古い旧石器時代コーナー。
その最初に置かれているのが、画像の槍先形尖頭器で、槍の穂先に装着して動物を狩るのに使われていた。
よく見ると、意外に丁寧に仕上げられていて、表裏両面に調整加工が施され、左右対称形に整えられている。
また、原料の黒曜石は関東では産出しないため、当時の旧石器人はわざわざ遠方の原産地へ足を運んでいたらしい。
顔がハート形をしていることから、こういう名称が付けられた。
実際にこういう顔形をした動物や人間が存在していたとは思えないので、明らかにデフォルメされたものだろう。
とすると、縄文時代の日本人はすでに、のちのパブロ・ピカソのような表現方法を習得していたことになる。
この土偶を見て、あの『泣く女』を思い浮かべる人は少なくないはずだ(?)。
これも昔、子供向けの本やテレビ番組の定番だった土偶で、本物は初めて見た。
当時は、縄文時代にやってきた宇宙人だと、大真面目に解説している科学雑誌などもあったと記憶しています。
遮光器土偶という名前の由来は、目が極地に住むイヌイットなどが使用している遮光器(昔のゴーグル)に似ていることによる。
ただし、縄文時代に遮光器があったわけではなく、これも当時のデフォルメ表現のひとつと考えられている。
こういう銅鐸も、小中高の歴史の勉強でしっかり刷り込まれたアイテム。
表面の区間内をよく見ると、魚をついばむ鳥(左上)、人間がイノシシを弓矢で狩る光景(右中)、杵で臼(の中の餅?)を突く姿(左下)などが描かれている。
右下には梯子がかけられた高床式の建物が描かれており、これは宗教的儀式が行われる神社のような神聖な場所だったようだ。
銅鐸が農耕祭祀と深い関わりを持つ祭器と見られている所以である。
これは間近に見るとかなりの迫力ですよ。
高さ134.7センチ、重さ45.47キロと、現存する銅鐸としては日本最大のもの。
サイズが大きく、鈕(つまみのこと)が多い派手なデザインは、近畿地方を中心に分布しており、別名「近畿式銅鐸」とも呼ばれている。
当時から関西人は関東人よりも目立ちたがり屋が多く、何につけても奇抜なデザインを好んでいたことをうかがわせる、というのは冗談だけどね。
銅鐸が祭器と重宝されていたのはこのころまで。
やがて、古墳文化が主流となる時代が訪れると、日本中の銅鐸はすべて地中に埋葬されたそうです。
古墳時代になると、領主や武人の墓にはこのような石人が一緒に埋葬されるようになった。
腰に吊るした刀剣が浮き彫りにされており、現存する石人の中では最も精巧で、完全形に近い。
これを見て宮崎駿の名作アニメ『風の谷のナウシカ』(1984年)に登場する巨神兵を思い出す人は多いだろう。
日本人同士の間で戦闘が発生したのは弥生時代からで、古墳時代に至って規模が大きくなったころ、このような金属製の甲冑が作られるようになった。
戦闘が生じた主な原因は、農耕社会の発達に伴う〝縄張り争い〟。
本欄の冒頭で紹介した槍先形尖頭器のような狩猟具が武器に転用され、殺傷力が増したことから、こういう防御用の武具が考案された。
こうした金属製甲冑は当初、中国・朝鮮半島から運ばれた舶載品が多かった。
日本人は後年、輸入した甲冑から高度な鉄器生産・加工技術を学び取り、国内でオリジナル品を生産するようになったという。
炭鉱とは胴回りを守るための武具で、横長の鉄板を革紐で綴じ合わせ、右前胴を蝶番で開閉する仕組み。
ヤマト王権が製作し、兵士たちに下賜したものと考えられている。
履き心地の悪そうな沓だなあ、と思ったら、古墳に埋葬される被葬者を飾るための装飾品でした。
朝鮮半島の百済から伝わったもので、底板1枚、側板2枚の金銅板に正六角形から成る亀甲文を打ち出し、底にはスパイクも付いている。
主に近畿圏に分布していたと見られる戦闘用の馬具。
古墳時代にはすでに馬が家畜化され、戦に使われていたことを証明している。
須恵器とは、古墳時代中頃(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わった土器のこと。
この壺は肩に小像群が配置され、狩猟の場面が表現されている。
小像群は馬に乗った3人の人間(うち鉢巻を締めた者が2人、弓を持った者が1人)、刀を持った者が1人、両手を前にした者が1人。
さらに猟犬がいて、12匹ほどの鹿の群れを追いかけている。
フロアの中央が埴輪のコーナーになっており、一際目を引いた巨大な椅子。
現代のソファと同じくらいの大きさで、背凭れの裏側には細かい装飾的な模様があり、祭祀に使用されていたものと思われる。
5世紀ごろから作られるようになった馬形埴輪のひとつ。
鞍、轡、鏡板、それらを固定する革紐や辻金具など、細かな装飾品が多く、当時の流行や美意識を伺わせる。
古墳時代に作られた人物埴輪は様々な所作を表現したものが多い。
この埴輪も代表的なパターンのひとつ。
粘土を焼いて作り、遺体を入れて古墳に収めていた棺の一種。
古墳時代後期から終末期にかけて、近畿・中国地方に多く分布している。
鴟尾とは瓦屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種で、この日見た中では最大の展示物。
もともとは中国で生まれたもので、飛鳥時代に伝来して日本独自の形状を持つ鴟尾が作られるようになった。
子供のころに学校で勉強したつもりでいても、こうして実物を目の当たりにすると、改めて知ること、感じることが多い。
57歳にして、大変いい勉強をさせていただきました。