先日のBlogにも書いたように、球場記者席の人数制限のせいで試合取材のできない日はなるべく有効に使いたい。
というわけで、きのうは上野公園の東京国立博物館へ足を運んできました。
18歳で東京暮らしを始めて今年で39年目になるけれど、ここを訪ねたのは不勉強にして初めて。
まずは本館の常設展示をじっくりと鑑賞した。
ここは出品者の意向で撮影そのもの、及びフラッシュ撮影が禁じられているものを除き、原則として自由に撮影できる。
以下、仏像、刀剣、彫刻など、とくに目を引かれたものをアップしておきます。
クスノキの一材から大半を彫り出し、表面にペースト状のものを塗り重ねて成形する技法で作られている。
面長な顔立ち、簡略な衣の襞が奈良時代末期の特色(像下の説明文より。以下同)
吉祥天とは、インド神話に由来する豊穣や福徳を司る女神。
高貴な女性の装束を身に纏い、左の掌に宝珠を乗せている。
密教特有の仏である明王の代表格。
辮髪、眇めた(細めた)左目、唇の上下に牙を剥き出した表情は、9世紀末から流行したスタイルだという。
高さ180センチと常設展示の中では最も大きい。
もともとは二天王や四天王として製作されたうちの一体と見られている。
宗近は平安時代後期、反りがある鎬造(しのぎづくり)の刀剣の形式が完成したころの刀工。
刃文(はもん)に三日月形が見えることから「三日月宗近」と称され、「天下五剣」のひとつとされている。
休日にはこの名刀の前に観覧者の行列ができるほどで、そのための順路も作られている。
この日も熱心に写真を撮っている日本刀ファンがいました。
戦国時代、豊臣秀吉から長束正家が拝領し、福島正則に移って、奥平家の所有となった。
吉光としては小振りの作品。
吉房は、華やかな丁子刃(ちょうじは)の作風で知られる備前国(岡山県東南部)・福岡一文字派の刀工。
号・岡田切(ぎり)の由来は、天正12(1584)年に織田信雄がこの太刀で家臣・岡田重孝を成敗した(つまりぶった斬った)と伝えられることによる。
鎌倉時代末期の備前・長船派を代表する刀工・景光の初期の作品。
やや細身の太刀姿で、師・長光の晩年の作品、同時代に活躍した長船真長(さねなが)と作風が類似しているという。
指表(さしおもて)は鎬造、裏は切刃造であることから「切刃貞宗」と称され、様々なエピゴーネンを生み、江戸時代の刀工・越前康継がこの作品の写しを制作。
豊臣秀吉、前田利家などの手を経たのち、紀州徳川家から将軍家に献上された。
茶室畳の下に切られた火を起こす炉の蓋として作られたもの。
実際に使うと、狸の口の両端から煙が立ち昇るそうです。
木彫の巨匠として知られる高村光雲が1893年のシカゴ万博に出品した大作にして代表作。
大鷲を組み伏せた老猿はキングコングよりも強そう。
鈴木長吉は明治時代を代表する鋳金家として知られ、この青銅作品もシカゴ万博に出品された。
羽一枚に至るまで、蠟型鋳造で精緻に表現されている。
伊能忠敬が制作した日本地図のうち、「中図」に分類される部分で、縮尺は21万6000分の1。
「本図」には関東一円、福島南部、新潟西部、富士山、伊豆半島、伊豆七島までが描かれている。
江戸幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の実態を把握するために作成した「五街道其外分間延絵図並見取絵図」の一部。
展示されている部分だけで10メートルはあっただろうか。
明治時代の築地を在日外国人が撮影したという写真。
築地には明治元年(1868)、鉄砲洲(東京都中央区明石町)に外国人居留地があったが、明治32年に廃止され、それ以後は外国人が自由に居住地を選べるようになった。
ここから先は東洋館の常設展示物です。
この菩薩は中国の北斉時代、皇帝・文宣帝、大皇太后の聖寿万才、国民の安泰を祈念して作られた石灰岩の像のひとつ。
台座に刻まれた銘文に、崇光寺というところで三尊像の1躯として造られたと記されている。
その三尊像の中尊に当たる像はイギリスの大英博物館にあるという。
東魏は北魏の分裂によってできた王朝で、のちに北斉に滅ぼされた。
顔が細長く、身体の肉づきが平板なところが、北魏時代後期からの立像の特色。
唐時代の文化・芸術が花開いた8世紀、天龍山石窟に置かれていた作品。
東魏時代よりも身体が肉感的になっており、どんな顔をしていたのか、つい想像が膨らみますね。