終戦の日(15日)の翌日に放送されたドキュメンタリーで、プロ野球のないその翌日、じっくりと録画を鑑賞した。
戦後75年、まだこのような苛酷な話が埋もれていたとは、不勉強にしてまったく知らなかった。
第二次世界大戦中、ポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所では、一日に数千人ものユダヤ人が虐殺されたと言われるが、終戦間際にナチスがガス室など主要施設を爆破したため、ほとんど物証が残っていない。
そのガス室近くの地中から、1945年から1980年にかけて、ユダヤ人の使うイディッシュ語のメモが入った8本のガラス瓶が発見された。
文字が褪せて長らく判読できなかったこのメモが、現代のデジタル技術によってようやく復元。
そこに書かれていたのは、同じユダヤ人でありながらユダヤ人の大量虐殺に加担させられた人間たちによる悲痛な懺悔であり、ナチスに対する憎悪に満ちた告発だった。
彼らのようにナチスの手足となって働いたユダヤ人たちは「ゾンダーコマンド」と呼ばれていた。
そのコマンドのひとり、ギリシャ系ユダヤ人のマルセル・ナジャリが、自分たちに科せられた「任務」について、詳細なメモを残している。
コマンドたちは同胞のユダヤ人にシャワーを浴びるからと嘘をつき、地下の脱衣所で服を脱がせ、裸にして隣の「死の部屋」と呼ばれたガス室に送り込んだ。
ガス室を担当する別のコマンドが作業を引き継ぎ、天井から殺虫剤チクロンBを噴射してユダヤ人たちを虐殺する。
その30分後、コマンドたちは遺体を運び出して女の髪を刈り取り、金歯をしている者がいれば抜かなければならなかった。
髪はクッションの詰め物、金歯は溶かして延棒に変え、売り物にするためだ。
その後、1階の焼却炉で遺体を焼き、残った骨は叩き潰して灰にするように命じられた。
一人当たり640gほどの灰が残ったが、それらはすべて証拠隠滅のために近くの川に捨てられたという。
もうひとりのコマンド、レイブ・ラングフスはポーランドの小さな町、マクフ・マゾビエツキでユダヤ教の指導者をしていた。
彼は、収容所の中で子供たちに痛罵されたことをこう書き残している。
「8歳くらいの女の子が言った。
『人殺しはあっちへ行って! 私の可愛い弟に触れないで!』」
「幼い少年はこう言った。
『あなたたちもユダヤ人でしょう。
仲間をガス室に送って自分だけが助かるなんて、どうしてそんなことが平気でできるの?
殺人者として生きることが、僕たちの命よりも大切なの?』」
そう言われたラングフスの妻と子供は、収容所に到着したその日、すでに殺されていたのである。
ドイツ軍の敗走が始まる中、コマンドたちは外部の連合国側諜報部員と連絡を取り、大量虐殺の事実を知らせようと秘かに活動を始めた。
彼らゾンダーコマンドたちは、自分たちが虐殺に加担したユダヤ人と同じ運命を辿った者がいる一方、戦後も生き延びて幸福な家庭を築いた者もいた。
ギリシャ系のナジャリもそのひとりで、彼は自分の娘に収容所で殺された姉と同じネリーという名前をつけて可愛がった。
終盤、そのネリーがインタビューに応じ、1971年に54歳で他界した父親の思い出を語る。
父ナジャリは生前、いつも笑顔とユーモアを絶やさない人物で、アウシュビッツでの出来事は一言も語らず、父がゾンダーコマンドだったことは復元されたメモを読んで初めて知ったという。
ナジャリがガス室近くの地中にメモを埋めたことを忘れていたはずはない。
それなのになぜ、メモの存在を誰にも知らせず、封印したまま亡くなってしまったのか、いまとなっては想像もつかない。
オススメ度A。