本書は8月の頭から読み始め、終戦の日の翌日、16日に読み終えた。
最近、これほど感動的かつ衝撃的で、非常に惹きつけられた半面、読み進めるのが時々辛くなり、複雑な思いを抱いた本はほかにない。
開巻、奥多摩渓谷の河原でピクニックをしている2組の男女と12人の男たちの描写から、この作品は始まる。
2組の男女は奥多摩行きを計画した同志社大学教授オーテス・ケーリとアリス夫人と、彼らの運転手役を兼ねて同行していた同大アーモスト館舎監の中山夫妻。
以上4人は本名だが、残る12人はすべて仮名かニックネームである。
某地方紙社長「幡さん」、東京の国立大教授「ドクター」、定年退職した元新聞記者「北川」と「田崎」、鉄鋼販売会社社長「キラ」、大手不動産会社の守衛長「落下傘」、繭工芸品職人「ウォッチェ」等々。
この12人は太平洋戦争でアメリカ軍の捕虜になり、ハワイの海軍特別捕虜収容所に入れられていた。
そこで、当時海軍中尉だったケーリの指揮と指導の元、日本の兵士や国民に投降と降伏を呼びかける宣伝ビラを作っていたのである。
太平洋戦争末期、東南アジアや南太平洋の島々で、日本軍兵士と民間人はいつも死と隣り合わせの過酷な敗走を続けていた。
硫黄島の壕に立てこもっている最中、「出てきなさい。水も食べ物もある」とアメリカ軍に呼び掛けられた幡さんは、自ら投降しようと決意する。
幡さんはそのとき、自分は出て行くが、「これは賭け」だ、と壕にいた兵士たちに告げる。
「あとで、あいつに乗って大損したとはいわれたくない。出たいやつは自分で決めろ」と。
その結果、数人が幡さんについていき、十数人が残った直後、壕はアメリカ軍によって爆破された。
のちに戦後30余年を経て地方紙の社長となり、人生の成功を収めても、あのとき、硫黄島であんなことを言うのではなかったと、幡さんは生涯悔やみ続けることになる。
サイパン島のパナデルで、落下傘は右足をもぎ取られた娘に「兵隊さん、助けてよ、連れて行って、死にたくない」とすがられる。
よし、衛生兵を呼んできてやろう、しばらくの辛抱だ、と気休めを言えるような状況ではなく、自らも死を覚悟していた落下傘は、持っていた軍用の短剣で娘の心臓を刺した。
こういう苛烈な経験をした日本兵たちの中から、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えた戦陣訓をかなぐり捨て、捕虜になることを選ぶ人間が次々に出てきたのは、ある意味、当然でもあっただろう。
そして、もともとがインテリで、当時の日本政府や天皇制に懐疑的だった彼らは、ケーリ中尉の要請を受け、日本人に対する投降の勧誘や戦意の喪失を目的とした宣伝ビラを作るようになる。
筋論から言えば、これは祖国に対する明白な裏切り行為である。
捕虜になるまでは「鬼畜米英」と呼んで戦っていた敵のもとで、いまなお同胞や自分たちの家族、友人を戦火に晒し、殺し続けている敵を利する謀略に加担しているのだから。
もちろん、彼らには彼らなりの自己正当化できるだけの言い分があった。
国力の違いを一顧だにせず開戦に踏み切った日本の指導者を打倒しなければならない、戦後の日本には革命が必要だ、自分たちはその第一歩を踏み出すためにこそ、いまこうして日本国民を目覚めさせるためのビラを作っているのだ、と。
しかし、同じ収容所の捕虜の中にはそんな〝新米派〟の言い分を身勝手だと糾弾する〝愛国派〟が大勢いて、むしろそちらのほうが多数派だった。
そして、ビラ作りに協力した新米派たち自身、戦争が終わっても日本に自分たちの居場所はないだろう、アメリカに渡って皿洗いでもしながら生活するしかないかもしれない、と考えていた。
果たして、幡さんや落下傘をはじめとする12人の元捕虜たちの判断と姿勢は正しかったのか、間違っていたのか。
もし間違っていたのなら、どうして彼らの係累をはじめとする当時の日本人たちは、彼らの社会復帰を許し、受け入れたのか。
本作の著者は、文字通り心の襞を一枚一枚、丁寧に剥がしとるように、彼らの内なる深層に迫っていく。
ここでぶつかるのが、本作の戦争、戦後社会、日本人論といった作品としてのテーマとは別に、ノンフィクションやルポルタージュにおける「歴史」と「翻訳」の問題である。
著者は私の父親と同じ昭和9(1936)年生まれで、戦時の日本社会や当時の雰囲気を知ってはいても、実際の戦場は知らない。
そのため、捕虜となった取材対象が戦場体験を詳細に語っても、当然のことながら、実感を持って受け止め、十全に理解することは不可能だ。
そこで、著者より年上の元日本兵たちは、著者が理解しやすいように本作が書かれた現代日本(1976年)でも通じる言葉に置き換える。
その瞬間、元日本兵が生きた「歴史」は、現代でも読める物語として「翻訳」されてしまうのだ。
私が書いているスポーツノンフィクションにしても、話が古くなればなるほど、この種の「翻訳」に依拠せざるを得ない部分がどうしても出てくる。
書き手としてはそのたびに如何ともし難いジレンマに悩まされるのだが、著者もまた、かつて自分の上司だった北川の話に「どうしても違和感を感じて仕方がない」と言いながら筆を進めていく。
「誰もが好意を持って話してくれた。
ずいぶん遠慮ない質問にも、人びとは笑いさえ混えながら答えた。
しかし、絶えず私は、実感のない話に相槌を打っている自分のことを、ひょっとするとこれから嘘の上に嘘を重ねる作業を始めようとしているのではないか、と考えないわけにはいかなかった」
終盤になって、突如表面に出てくるこの独白にはどきりとさせられた。
しかし、読者の心にまで一抹の疑惑を生じさせかねないこういう文章を、あえて率直に書いているところに著者の良心と潔さを感じる。
そうした著者や登場人物の葛藤を経て、最後に描かれる落下傘が戦後に遭遇する苦難の数々はまことに強烈。
自ら日本人の娘を殺した過去に責め苛まれ、戦後もまた何の巡り合わせか、戦場さながらの修羅場に放り込まれた日本人がいたのかと、この本を広げたまま、しばし呆然としている自分がいた。
😁😭😳🤔🤓😖
2020読書目録
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※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録
11『ヒトラー演説 熱狂の真実』(2014年/中央公論新社)😁😳🤔🤓
10『ペスト』ダニエル・デフォー著、平井正穂訳(1973年/中央公論新社)🤔🤓😖
9『ペスト』アルベール・カミュ著、宮崎嶺雄訳(1969年/新潮社)😁😭😢🤔🤓
8『復活の日』小松左京(1975年/角川書店)🤔🤓
7『感染症の世界史』石弘之(2019年/角川書店)😁😳😱🤔🤓
6『2000年の桜庭和志』柳澤健(2020年/文藝春秋)😁🤔🤓
5『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ著、鼓直訳(1984年/集英社)😳🤓😱😖
4『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル著、土岐恒二訳(1984年/集英社)😁🤓🤔😖
3『らふ』森下くるみ(2010年/青志社)🤔☺️
2『最期のキス』古尾谷登志江(2004年/講談社)😢😳
1『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』奥山和由、春日太一(2019年/文藝春秋)😁😳🤔