新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言の発出が取り沙汰され始めた3月下旬、都内の大型書店では次々に疫病関連書籍のコーナーが作られた。
本欄でも紹介した石弘之著『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫)、小松左京著『復活の日』(角川文庫)と一緒に並べられていた中、最も売れたのがこの『ペスト』だったという。
一時的とはいえ、この新潮文庫版は4~5月の日本でベストセラーとなり、累計発行部数が100万部を超え、NHKがドキュメンタリー番組で取り上げたほど。
僕自身、本書を一気に読んだのは緊急事態宣言の最中であり、新型コロナの世界的大流行がなければ、この20世紀を代表する傑作を読むこともなかったかもしれない。
舞台は1940年代、アルジェリアの海辺にあるごくありふれた街、オラン市。
主人公の医師ベルナール・リウーが診療室を出た矢先、階段で一匹の鼠の死骸につまずく有名な場面から、街全体がペストに冒され、政府によってロックダウンさせられた中、人々が次々に斃れてゆく不条理で悪夢のような物語が展開する。
本作がいまになって現代人の共感を呼んだのは言うまでもなく、ここに描かれたペストの感染拡大と、日々翻弄される市民の姿が現在のコロナ禍による状況とあまりにも酷似しているからだ。
例えば、高級ホテルで遊び暮らしているジャン・タルーに対して、老人の夜警がこう愚痴る場面がある。
「まったく、こいつが地震だったらね!
ガッと一揺れくりゃ、もう話は済んじまう…。
死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。
ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだからね」
「地震」を阪神・淡路、東日本、熊本などの「震災」、「この病気」を「新型コロナ」に置き換えたら、これほど正確にわれわれ現代の日本人の心中を代弁している文学作品のセリフはほかにあるまい。
年老いた夜警にそう言われたタルーが、治療を続けるリウーに対して「ペストはあなたにとって果たしてどういうものになるか」と聞くと、リウーはこう答える。
「際限なく続く敗北です」
それでもペストとの戦いをやめようとしないリウーは、どこでそういう生き方を教わったのか。
このタルーの問いに、リウーはまた短く答える。
「貧乏がね」
そんなリウーに共感したタルーは、それまでの高等遊民的な生活から脱却し、市民を救うためにリウーの医療活動に協力しているうち、ついに自らもペストに感染してしまう。
リウー自身もまた、体調を崩し、何百キロと遠く離れた市外の療養所で最期のときを迎えようとしている妻に会うことができない。
新聞記者レイモン・ランベールは恋人に会うため、オランから秘かに脱出しようと画策していたが、リウーやタルーと行動をともにするうち、彼らとこの街にとどまることを決断。
最初のうちはペストを神の怒りと捉えていたパヌルー神父も、自分の息子がペストに責め苛まれる死に際を目の当たりにして、この病気に立ち向かおうとする。
現在、コロナ禍の真っ只中に置かれたわれわれがそうであるように、本作の登場人物たちもまた、ある日突然、ペストという不条理に呑み込まれ、その中で懸命にあがき、もがいて、生き延びようとする。
生活に困窮した人々が自粛を打ち切って仕事を再開し、これが感染拡大の要因になるところもコロナ禍とそっくりで、この現象をカミュはこのように表現する。
「この時期からは、実際、困窮が恐怖にまさる力を示す事実が常に見られたのであり、仕事は危険の度合いに応じて賃金を支払われていただけになおさらであった」
結末ではついにペストが去り、ようやく家族や恋人と再会を果たした人々が歓喜に沸き、熱いキスと抱擁を交わす様を、カミュは邦訳文にして20ページ以上に渡って描き出す。
ここまで読んで、現実のコロナ禍も早くこのように終わってくれればと願わなかった読者はひとりもいないだろう。
しかし、カミュはその末尾で、ペスト菌は決して滅びることなく、人々の家具や下着類に潜み、数十年ののちにふたたび人々を襲うであろうと警告することを忘れてはいない。
ここでも、ペストをコロナに置き換えると、疫病の恐怖が実に生々しく感じられ、疫病のもたらす不条理がいまや文学ではなく現実であることを痛感させられる。
なお、34歳で本作を書き上げたカミュは、10年後に文学賞としては史上最年少だった44歳でノーベル賞を受賞。
46歳で「私の人生はこれからだ」と公言し、さらに世界的名声を高めようとしていた翌年、交通事故によって47歳で死亡している。
これほど突然に人生が終わることを、『異邦人』で不条理な殺人を描いたカミュは果たして想像していただろうか。
この世界的文豪のあまりに短い生涯もまた、彼が突き詰めようとした不条理そのものであると言えよう。
😁😭😢🤔🤓
2020読書目録
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※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録
8『復活の日』小松左京(1975年/角川書店)🤔🤓
7『感染症の世界史』石弘之(2019年/角川書店)😁😳😱🤔🤓
6『2000年の桜庭和志』柳澤健(2020年/文藝春秋)😁🤔🤓
5『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ著、鼓直訳(1984年/集英社)😳🤓😱😖
4『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル著、土岐恒二訳(1984年/集英社)😁🤓🤔😖
3『らふ』森下くるみ(2010年/青志社)🤔☺️
2『最期のキス』古尾谷登志江(2004年/講談社)😢😳
1『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』奥山和由、春日太一(2019年/文藝春秋)😁😳🤔