『エキサイトマッチ/KO率100%!エドウィン・バレロ特集』(WOWOW)

118分 WOWOW 初放送:2019年5月11日(月)午後9時〜

新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)により、ボクシングの試合も延期や中止が相次いでいる。
そうした中、WOWOW『エキサイトマッチ』が組んだ特別番組、過去の名チャンピオンを振り返ったアーカイブの1本。

マニー・パッキャオやローマン・ゴンサレスは今後も何度か特番が組まれるだろうが、このエドウィン・バレロの試合だけは、こういう機会でもなければなかなか再放送されないのではないだろうか。
2階級制覇、27戦27勝27KOという全盛期のマイク・タイソンに勝るとも劣らないハードパンチャーでありながら、アルコールとドラッグに溺れ、妻を刺殺し、拘置所で自殺するという凄惨な最期を遂げたからだ。

今回、再録された最初の試合は、日本デビュー戦となった2005年9月25日、横浜アリーナでの阪東ヒーロー戦(1R・TKO)。
これは特別リングサイドで観ていたので、涙が滲むほど懐かしかった。

次が、2006年8月5日、パナマでWBA世界スーパーフェザー級王座を奪取したビセンテ・モスケラ戦(10R・TKO)。
バレロがKOするのに10Rまでかかったのは自己最長で、それだけ王者モスケラが強かったということであり、非常に迫力のある攻防が印象に残る。

最初の防衛戦、2007年1月3日、有明コロシアムでのミチェル・ロサダ(メキシコ)戦は3試合ぶりに1RでケリをつけるTKO。
当時はパッキャオとのビッグマッチが期待されたが、これは結局実現せず。

2度目の防衛戦は同年5月3日、やはり有明で、初めて日本人挑戦者を迎え撃った本望信人戦は8R・TKO。
3度目の防衛戦は同年12月15日、挑戦者の地元メキシコに乗り込んだサイド・サバレタ戦(3R・TKO)。

4度目の防衛戦は2008年6月12日、日本武道館での嶋田雄大戦(7R・TKO)。
この試合は当日メインイベントを務めたWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積(当時)の家族席で観戦させてもらった。

バレロと帝拳との契約期間最後の試合でもあり、バレロはこのときからトランクスに日本の国旗とともにベネズエラの国旗の刺繍を入れている。
個人的には、このころからバレロのボクシングから以前のような切れ味が薄れているように感じられた。

しかし、ボブ・アラムのトップ・ランクと契約した2009年4月4日、米テキサス州オースティンのフランク・アーウィン・センターで行われたWBC世界ライト級王座決定戦は、アントニオ・ピタルア(メキシコ)に2RでTKO勝ち。
バレロに全盛期の迫力が戻ってきた半面、トランクス、ガウン、セコンドのシャツまでベネズエラ国旗のスリートーンカラーで統一し、胸にも国旗と友人だったウゴ・チャベス大統領のタトゥーを入れるなど、いま見るとナショナリズムへの傾倒が一気に顕著になっている。

初防衛に成功したあと、2010年2月6日、メキシコのアレナ・モンテレーでの暫定王者アントニオ・デマルコとの王座決定戦は9R終了後に相手が試合放棄(記録はTKO)。
2Rにバレロがデマルコの肘打ちで右の額を切って大量に出血すると、その直後にリングサイド席にいた妻ジェニファーが映し出され、彼女の心配そうな表情が印象的だ。

こうして改めてバレロの試合を観ると、単にボクサーとしてのパワーや頭抜けているだけでなく、相手を殴り倒そうという根源的な力、それこそ原始人のような野性味を感じさせる。
それでいて、鉄の男と呼ばれたタイソンと違い、無邪気な少年っぽさや華やかな雰囲気を漂わせているところがバレロの魅力だった。

しかし、このデマルコ戦がバレロの最後の試合となる。
このころのバレロはすでにアルコールとコカインの中毒症状がかなり進行していたらしく、前年には母国ベネズエラで母親や姉妹に対するDV容疑で逮捕されたと報じられていた。

デマルコ戦から約1カ月後の同年3月25日には、ベネズエラで妻ジェニファーが肺臓破裂、肋骨骨折の重症で病院に担ぎ込まれるという事件が起こる。
そして、4月18日、バレロはホテルで妻を刺殺し、警察に逮捕されたその夜、拘置所で首を吊って死んだのだった。

オススメ度A。

(以下に旧サイト:2010年04月20日(火)付Blogの記事を転載する。)

元WBAスーパーフェザー級、WBCライト級世界王者エドウィン・バレロが死んだ。

故郷ベネズエラのホテルで妻を刺殺し、その容疑で逮捕され、拘置所で首つり自殺を遂げたのである。
バレロは28歳、彼が殺した妻ジェニファーは24歳だった。

ぼくがバレロを初めて見たのは2005年9月25日、横浜アリーナでの阪東ヒーロー戦だった。
これが日本で行われた最初の試合でもある。

バレロは当時、デビュー以来15試合連続1回KO勝利の記録を更新中で、アメリカのプロモーターにも注目されていた急成長株だった。

この日本でのお披露目は、帝拳プロモーションによる100万円の賞金マッチとなった。バレロは1回KOすれば、対する阪東はたとえ負けても1回KOさえ免れれば100万円をもらえる。
結果は、逃げ回る阪東をあっさりバレロがノックアウト。連続1回KO記録を16に伸ばした。

このときのバレロには華があった。
単に強いだけでなく、短い試合時間の中にも鋭い切れ味を感じさせ、いつ必殺のブロウが飛び出すのかと、見ているこちらをワクワクさせるような試合をやってくれたのだ。

ほどなくして、バレロはリングサイド席に現れた。
確か、自分の次のカードで、同じベネズエラ出身のホルヘ・リナレスの試合を見に足を運んできたのだったと思う。

そのバレロに、近くの席に座っていたぼくは、「コングラチュレーション!」と声をかけた。

「いい試合だった。すごくエキサイティングだったよ」
「ありがとう。これからも見に来てくれ」

にっこり笑い、ぼくの手をがっちり握ってバレロが言う。
「記念にサインをもらえないか」とプログラムを差し出すと、「キミの名前も入れておこう。コレに書いてよ」と、プログラムのページの片隅を示された。

そこにEiichi Akasakaと書くと、バレロは丁寧にその字を書き写してくれたのだった。
ひょっとしたら、バレロが日本のアリーナでファンにサインした最初の1枚だったかもしれない。

そのサインはいまのところ、ぼくが現役ボクサーにもらった最初で最後のサインとなっている。
その後、辰吉丈一郎、長谷川穂積、粟生隆寛、佐々木基樹と錚々たる顔ぶれに取材したが、当然のことながらサインは一枚ももらわなかった。

バレロは08年まで、帝拳ジムと契約を結んでいた。
粟生や佐々木など、ほかのボクサーの取材で訪ねるたび、練習に汗を流しているバレロの姿を見かけたものだ。

奥さんや子ども、それにベネズエラから呼んだ両親や親戚もジムに顔を出していたことを覚えている。
公私ともに充実しているように、ぼくには見えた。

最後にバレロを見たのは08年6月12日の日本武道館、長谷川穂積の世界戦とともにダブルタイトルマッチとして行われた嶋田雄大戦だった。
しかし、このときのバレロはかつてのような華々しさがなく、慎重なボクシングに終始して、明らかに格下の嶋田をTKOするのに7回1分55秒もかかっている。

4度目の防衛に成功した試合後、バレロはスーパーフェザー級の王座を返上した。
結果的に、この一戦がバレロ自身にとっても日本で行った最後の試合となった。

たとえ死んでも、犯した罪は消えない。しかし、それはバレロの華麗な試合の記憶も同じだ。

プロデビュー以来、27戦27勝27KO無敗。
2階級制覇。

この記録は空前絶後である。
ぼくは、ボクシングの偉大な才能を悼む。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
先頭に戻る