昨年年12月、KISSが日本の5都市を回ったラストツアーに密着し、ジーン・シモンズの半生を描いたドキュメンタリー作品。
開巻、シモンズがビバリーヒルズの広壮な屋敷でピアノを弾きながら自作のラブソングを歌い、カメラに向き直って一言。
「おれが16歳で作った歌だ。
そして、おれはいま、70歳だ!」
こう言って笑うシモンズはもちろんスッピンなのだが、長年ステージの主役を務めてきたKISSのリーダーならではの迫力と貫禄を漂わせている。
ツカミとしてはまことに秀逸で、全編を通じて日本語のナレーションが一切ないこともシモンズの声に厚みを加えている。
独特のコスチュームは総重量20㎏もあり、体力維持のために毎朝のジョギングとトレーニングが欠かせない。
コウモリの羽根のような部分は、はるか昔に観た怪奇映画『ロンドン・アフター・ミッドナイト』(1927年)で主役のロン・チェイニーが着ていたコスチュームからアイデアを得たという。
チェイニーはアメリカの伝説的な怪奇俳優で、メイクもコスチュームもすべて自分で考案。
シモンズ自身もこの偉大なレジェンドに倣い、公演のたびに自分で念入りにメイクを施し、スタッフの手を借りることはまったくない、と説明している。
しかし、寄る歳並みには勝てず、最近では視力が衰えたため、舞台裏では懐中電灯で自分の足元を照らすように指示。
ゴジラにヒントを得た火を吹くパフォーマンスでは、髪の毛に燃え移ったことが7回あり、かつては宙吊りでステージ上に舞い上がったパフォーマンスも、いまでは安全第一でゴンドラを使うようになった。
1949年にシモンズを生んだ母フローラはイスラエル出身で、第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストで生き残った数少ないユダヤ人のひとりだった。
14歳で強制収容所に入れられ、目の前で両親と兄が殺されるところを見た母は、小さいころから息子ジーンにいつも「日々命があるだけで良い日なのよ」と、こう言い聞かせていたという。
「生きていて、健康ならば、あなたはそれだけでも勝者なの。
そして、生かされている限りは、上を目指す責任があるわ」
ジーンが6歳のときに父親は家族を捨てて家を出て行き、ジーンは母親とともに親戚を頼ってニューヨークに移り住む。
母親は地下室を借り、1日12時間、毎週6日の工場勤めで生活費を稼ぎ、ジーンも7歳から働き始め、12歳のころには新聞配達を掛け持ちしていたという。
チャック・ベリーを聴いてロックに開眼し、22歳で同じユダヤ系のポール・スタンレーとバンドを結成。
しかし、当時の音楽業界ではユダヤ系であることがハンデになると感じ、ここで初めてシモンズは現在の名前に改名する。
「私の本名はハイム・ヴィッツで、アメリカ人とっては良い響きではないから、ある日、ジーン・シモンズに変えたんだ。
毛虫がある日、蝶になるようにね」
KISSが最初のヒットを飛ばし、シモンズが大金が記された小切手を母親に渡すと、「ワンダフル! ワンダフル!」と彼女は大喜びしてくれた。
しかし、次の瞬間、その小切手を脇に置き、こう言ったそうだ。
「さあ、これからどうするの?
息子よ、あなたはこれからも毎朝起きて努力を続けるのか、それとも調子に乗ってふんぞり返るのか」
まだシモンズが若かったころ、舌を出すシモンズの横で、目を見開き、大きく口を開けている母親とのツーショットが印象的だ。
その母親は2018年、92歳で亡くなっている。
そんな母親の薫陶を受けて育ったシモンズは、〝ロック界最強のビジネスマン〟と呼ばれる商売人でもある。
バンド名、ロゴマーク、メイクデザインまで商標登録して、キャラクターグッズはフィギュアやTシャツはもとより、スクーターや自転車、果てはトイレットペーパーや棺桶(!)と文字通り何でもござれで、合計3000点以上、総売上1000億円以上に及ぶ。
さらに全米展開しているレストランチェーンのオーナーでもあり、飲料やヘルスケア業界にも進出して、純資産は370億円以上。
当然のことながら、「ライフ・イズ・マネー!」と、金銭哲学を語る言葉も実に率直かつ強烈。
「おれがグッドガイでも、飢えている人に優しい言葉をかけるだけでは、そいつは死んでしまう。
逆におれがクソ野郎(アスホール)で、飢えている人にファック!と罵声を浴びせても、金さえ渡せば、そいつは生きていけるんだ」
「いまでも金はもっと欲しい、おれは正直だ」と言い切り、心底信用しているのは家族だけ。
ビジネス上のミーティングには娘のソフィーを同席させ、その直後には相手にスマホでお礼のメールを送ることも忘れない。
こんなドキュメンタリーのクライマックスはジャパンツアー最大のヤマ場・京セラドーム大阪でのライヴ。
ここでファンが行列を作っていた記念撮影イベントの参加料は、実に1人15万円だった。
オススメ度A。