BS世界のドキュメンタリー『喜劇王対決 チャップリンvsキートン』(NHK-BS1)🤗

CHAPLIN/KEATON Duel of Legends 
45分(オリジナル版53分) 2015年 製作:フランス=MK2TV
初回放送:2017年5月4日午前0時〜 再放送:2019年12月25日午後6時〜

2017年に初放送されて以来、昨年まで5度に渡って再放送されている〈BS世界のドキュメンタリー〉のヒット作品。
タイトルの通り、映画の草創期からドタバタ・コメディのスターとして一時代を築き、ライバルとしても張り合ったチャーリー・チャップリン(1889〜1977年)、バスター・キートン(1895〜1966年)の個性と人生を比較対照しながら描いている。

開巻、チャップリンとキートンが共演した唯一のトーキー映画『ライムライト』(1952年)で、ふたりが会話を交わす場面が紹介される。
この作品はチャップリンのほかの代表作と同様、主演・製作・監督・脚本・音楽と1人5役を務めたワンマン映画。

チャップリン演じる主人公は落ち目の喜劇役者で、キートンもまたすっかり過去の人になっているチャップリンの相棒という役どころ。
製作当時、チャップリン自身がまだ第一線で活躍していたのに対し、キートンは実人生でも表舞台から遠ざかっていた、というオープニングから、本作はふたりの過去に遡る。

1889年、キートンより先に生を受けたチャップリンはイギリスのロンドンの貧民街の出身で、ミュージックホールの俳優でアル中だった父親、鬱病を患っていた母親の元で幸せとは言えない少年時代を過ごす。
一方、6年後の1895年、アメリカのカンザス州の田舎町で生まれたキートンは、旅芸人の両親の元で幼いころから芸事や芝居漬けの生活を送っていた。

チャップリンは兄のシドニーとコンビを組み、ロンドンの劇場を回っていたが、なかなか出世できない。
そうした最中の1913年、アメリカへ巡業に出かけ、草創期のハリウッドで毎日1本、ドタバタ即興喜劇を量産していたプロデューサー、マック・セネットに才能を見出される。

チャップリンは最初の喜劇映画『ヴェニスの子供自動車競争』(1914年)で、あの有名な山高帽にステッキ、ピチピチのジャケットにダブダブのズボンという独自のスタイルを初披露。
これで一躍ニッケルオデオン(25セント劇場)のスターになると、翌1915年にはセネットと別れて自ら映画製作に乗り出すようになった。

ドタバタ喜劇が映画の主要ジャンルとして飛躍的な成長を遂げたのは、この時期のチャップリンの映画が大ヒットしたからだ。
チャップリンの登場によってプロデューサーも映画会社も若いコメディアンを欲しがっていたこのころ、キートンはコメディアンの先輩ファッティ・アーバックルから映画界へ誘われる。

キートンの映画デビューは1917年で、最初は端役だったが、2年後には主演を務めるスターに成長し、その翌年には早くもチャップリンの向こうを張る存在にまでのし上がった。
チャップリンとキートンのライバル争いが本格化したのはこのころからだ。

プロデュース能力も含めた映画人として、チャップリンが常にキートンより一歩先んじていたのは間違いない。
人気女優メアリー・ピックフォード、アクション俳優ダグラス・フェアバンクス、大物監督デヴィッド・ウォーク(D・W)・グリフィスらと手を結び、1919年には自ら配給会社ユナイテッド・アーティスツを創立、自分の映画を全米で公開できるほどの力を身につけていた。

チャップリンが我が世の春を謳歌していたころ、キートンは義理の兄に出資を仰ぎ、そのチャップリンが手離した撮影所を買収。
この〈バスター・キートン・スタジオ〉で製作した2本目の作品『文化生活一週間』(1920年)は大ヒットしたのみならず、今日でもオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)と並び称されるほどの画期的な名作となった。

このくだりで紹介される『文化生活一週間』の一場面、キートンが風雨によって延々と回転を続ける家と格闘するくだりは大変見応えがある。
チャップリンの長編映画はいまでもNHKのBS放送などで時々観られるが、キートン作品は滅多に放送されず、DVDも絶版になっているものが多いので、これは貴重な映像と言っていい。

このほかにも、キートンがポーカーフェースで繰り広げる身体を張ったドタバタ演技の場面が目白押し。
よく観ていると、家の壁が前に倒れた瞬間、ちょうど空いた窓のところに立っていたキートンが下敷きを免れるギャグなど、のちに『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』(2017年)にそっくりな場面が出てくるのを思い出し、笑う前に唸ってしまった。

チャップリンの映画はペーソスやヒューマニズムに満ちていて、鋭い風刺や辛辣な社会批判が含まれており、それがあるからこそ高く評価されている。
だが、キートン作品にはそうしたメッセージ性は一切なく、彼は身ひとつで理不尽な事態に放り込まれ、猛スピードで目まぐるしく変わる状況の中、まったくのひとりきりで表情を変えずに延々と七転八倒し続けるのだ。

そんなキートンの初の長編映画は、チャップリンの名作『キッド』(1921年)の2年後に公開された『滑稽恋愛三代記』(1923年)。
キートンが石器時代、古代ローマ時代、アメリカ禁酒法時代の3時代を股にかけて大活躍するという歴史ファンタジーだそうで、これも一度観てみたい。

1920年代半ばに入るとチャップリンが『黄金狂時代』(1925年)、キートンが『大列車強盗』(1926年)と、それぞれのキャリアを代表する長編映画を発表して喝采を博すが、このあたりがふたりのピークだったのかもしれない。
映画がサイレントからトーキーに移行し、チャップリンが名作『街の灯』(1931年)をサイレントで製作して抵抗を見せていた一方、キートンは自分のスタジオを手離し、一介のコメディアンとしてMGMと契約。

ここでも『キートンのカメラマン』(1928年)をヒットさせたものの、会社側から様々な制約を受けることに嫌気がさし、日増しに酒浸りとなってかねてからのアルコール依存症が悪化。
財産、邸宅に加え、自分が製作した映画の権利をすべて手放さざるを得なくなり、あげくに離婚、解雇とお決まりの転落の一途を辿る。

しかし、第一線に残ったチャップリンも様変わりした映画業界で疎まれる存在になり、赤狩りによって一時ハリウッドを追放されるという憂き目に遭う。
チャップリンはそうした逆境にあった中、『ライムライト』(1952年)のヤマ場で自分の相手を務められるのはキートンしかいないと、自らオファーと救いの手を差し伸べたのだ、というのがこのドキュメンタリーの解釈である。

なお、晩年のキートンは3人目の妻を迎え、テレビドラマやCMに出演し、幸福な老後を送ったという。
本作では触れられていないが、孫娘のカミールは女優になり、主演した異色のバイオレンス映画『発情アニマル』(1978年、※のちの再公開で『サマータイム』『女の日』などに改題)がカルト化している。

オススメ度A。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
先頭に戻る