日本言論メディア界のドン、「ナベツネ」こと渡辺恒雄・読売グループ本社主筆が、93歳にして初めて映像メディアのロングインタビューに答えた貴重なドキュメンタリー。
100分はあっという間で、不遜で失礼な感想を率直に記するなら、いやあ、このオッサンはやっぱり面白いわ。
開巻、テレビカメラが初めて入ったという「主筆室」を渡辺自らが案内。
恐らくは体調が優れないときに寝るのだろう病室用ベッド、血圧測定器が置いてあるフロアを、渡辺は歩行補助器を使って歩き回る。
自慢げに披露したのは、中曽根康弘元首相に墓碑銘として揮毫してもらった『終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑』。
この墓碑はすでに作られており、クラシック音楽にも造詣の深い渡辺は、自分の葬儀でかける曲の順番まで決めていて、その進行表とテープまで作っている。
渡辺が最もこだわっていたのは、最後から2番目に指定したチャイコフスキーの交響曲第6番第4楽章『悲愴』。
これは戦時中の1945年7月4日、学徒出陣の前日に高校・大学の旧友や後輩を集めて、「おれの葬送行進曲だ」と言って聴かせた曲だという。
一番面白いのはやはり政治部記者になってからの様々なエピソード。
「(自民党)総裁選の前になると、(議員たちが)会場の廊下で、僕らの見てる前で堂々と現ナマの授受をやってる。大きな風呂敷包みの中身が全部現ナマ」という新米記者のころの目撃談からして実に生々しい。
戦後のアジア諸国、とりわけ韓国との国交正常化が喫緊の課題となっていた1962年、渡辺は「大平・金合意文書」をスクープする(12月15日付)。
国交回復のための賠償金の金額(経済協力額)の内訳、日本から韓国への無償供与が3億ドル、政府借款が2億ドル、民間借款が1億ドル以上が記されたメモだ。
「(メモは)ざら紙に鉛筆ですよ。それが事実その通りに実現するんだから」という話っぷりが渡辺らしい。
渡辺はこの裏側で、事前に大野伴睦と金鐘泌・初代中央情報部長を引き合わせ、親密な関係を築いていた。
つまり、取材者という以上に、当事者として関わっていたからこそのスクープである。
これは以前から、渡辺がジャーナリストとして逸脱していると、再三批判されてきた部分。
しかし、渡辺本人は「それはみんな言ったね。言ったって何たって国交がないんだから。ないものを作ろうと、これはお互いの国益にプラスなんだ」と、堂々と、いまや齢を重ねて飄々と語っている。
現在も「政治家の懐に入らなきゃわからんことがあるんだから」。
そうした取材手法を前提として渡辺が語った1972年の沖縄返還に関わる「西山事件」の解説が興味深い。
毎日新聞記者・西山太吉が、沖縄返還協定上アメリカが負担するべき沖縄の原状回復費を日本が肩代わりする、という外交機密文書をスクープし、その取材手法が問題視され、西山の逮捕、裁判にまで発展した事件である。
このとき、渡辺が弁護側証人として出廷し、西山を擁護する証言を行っていたことは初めて知った。
本作では88歳になった西山自身も登場し、「(渡辺は)よう出てきてくれた。(裁判に)参加してくれた。(当時の)取材実態に照らして考えても、まったく妥当な、正確な証言だったと思いますよね」と感謝の弁を述べている。
西山によれば、渡辺が証言を終えたとき、傍聴席の(記者たち)から拍手が沸き起こったという。
そんな西山のインタビュー場所が現在の住居で、渡辺の主筆室とは比べ物にならない、庶民的なアパートの一室だったことも印象に残る。
この事件の背景にはもうひとつ、当時の首相だった佐藤栄作の思惑もあった、と渡辺は解説する。
当時、佐藤は大平と「非常な敵対関係」にあり、その「大平と西山が非常に親しく、一体化して見えた」ため、「佐藤は西山をやっつけようとした」というのだ。
これは実感としてよくわかる。
プロ野球記者も政治部記者と似ているところがあり、例えば記者が特定の選手と親しくなると、その選手とポジション争いをしている別の選手に、敵視されないまでも警戒感を示され、距離を置かれるようになるから。
オススメ度A。