きょうは久しぶりにコンビニで朝刊スポーツ紙をまとめ買いした。
東京の即売版は1紙の例外もなく、全紙が同じ野村克也さんの訃報で、こういう現象は最近にしては非常に珍しい。
野村さんが監督として采配を振るったヤクルト、阪神、楽天で担当記者を務めた各社のノムさん番が追悼記事を執筆している。
とくに1990〜98年のヤクルト担当は私と同世代の記者が多く、懐かしく、しんみりと、当時を思い起こしながら読ませてもらった。
個人的に最も印象深かったのは、トーチュウ(東京中日スポーツ)の竹下陽二記者の原稿である。
彼は私と同学年の同い年で、野村ヤクルトの担当を務めた記者の中では最もノムさんに気に入られていた。
野村さんはほとんどの担当記者を「おい、東スポ」「NHKが何の用だ?」などと社名で呼ぶ。
そうした中、苗字で呼んでいたのは、私の記憶している限り、竹下記者と私の上司だった日刊ゲンダイのH記者だけだった。
その竹下記者は昨年6月、野村さんの名言「生涯一捕手」をもじった「生涯一記者」という色紙を書いてもらったと、記事には書いてある。
野村さんは球界でも屈指の達筆で知られていたから、自分のための毛筆の色紙を所望した気持ちはよくわかる。
実は、野村さんが阪神監督だった時代、私も知人を介して色紙をいただいた。
「克己」は野村さんの座右の銘の一つだが、色紙の裏側にボールペンで「克己 己に克つこと。敵は我にあり」と、やはり直筆で解説が認めてあるところがノムさんらしい。
野村さんが専属評論家を務めていたサンスポでは、7人もの歴代番記者が名将を悼んで、30年という時の流れを感じさせた。
へえ、ノムさんとの間にそんなやりとりがあったのか、と驚いたり感心したりした半面、久しく会っていない旧知の記者の顔写真を見ると、みんなトシ取ったなあ、と思う。
そういう自分は、野村さんと格別親しかったわけではなく、ご本人を「ノムさん」と呼んだことすらなかった。
ヤクルト、阪神時代までは何度も話を聞かせていただき、1992、93年の西武との日本シリーズも全戦取材したが、楽天時代以降はすっかり縁遠くなって、ひょっとしたら晩年はもうどこの誰だか忘れられていたかもしれない。
斯界の大先輩、報知新聞の蛭間豊章記者のコラム『ヒルマニア』には、大変印象深い「タフネス捕手・野村」の逸話が綴られている。
1966年8月28日、神宮球場での東映−南海ダブルヘッダー第1試合、南海の4番・捕手だった野村さんは、東映の新人・森安敏明に右耳下への死球を受けながら、その試合だけでなく第2試合まで出場を続けた。
この試合の思い出は、ヤクルト監督時代に野村さんから直接伺ったことがある。
蛭間記者が称賛した第2試合で、「危うく殺されるところやった」というのだ。
「東映の連中、ワシが第2試合に出て行ったら、ここで野村を潰してやろうと思ったんかどうか、次から次へとホームへ突っ込んでくるんや」
「ははあ、クロスプレーで野村さんにタックルをしてきたんですね」
「おお、ワシは嫌われとったからな、張本(勲)や大杉(勝男)みたいな大男が、ものすごい勢いでぶつかってきた」
「そういうときでも、キャッチャーはしっかりブロックしなきゃいけないんですよね」
「いや、そんときは避けた」
「え?」
「第1試合で頭にぶつけられとる上に、張本や大杉にぶつかられたら、ホンマに死んでしまうやないか」
「で、避けてどうなったんですか」
「セーフや」
最後のほうは話を盛られていたのかもしれないが、私の好きな〝ノムさん噺〟の一つである。
試合中に荒井幸雄の頭を引っぱたいた本当の理由とか、ヤクルトの投手のどんなところが「バカ」かとか、ほかの人から聞いたら単なる悪口にしかならないようなネタを、野村さんはいっぱい聞かせてくれた。
あまりにもおかしくて、どうにも堪えきれず、野村さんのそばにしゃがみ込んでゲラゲラ笑っていたら、野村さんが私の顔を覗き込み、「ワシの話、そんなに面白いか」と笑いかけてきた。
私にとっては、あのときのノムさんの笑顔が一番忘れ難い。
ああいう人にはもう二度と出会えないだろう。
いまのうちに、野村さんが大変評価していた達川光男さんにも、いっぱい面白いお話を聞いておきたいと思います。