記者のひとりごと『辰吉復帰戦に思う』

☆当コンテンツについては〈上野隆 プロフィール〉をご参照ください。

○心斎橋総合法律事務所報『道偕』2003年1月号掲載

できれば、戦わずにそのまま引退してほしかった。世界ボクシング評議会(WBC)バンタム級前王者の辰吉丈一郎(大阪帝拳ジム所属)のことだ。

(2002年)12月15日、3年4ヵ月ぶりの復帰戦でタイ人の元世界王者に6回TKO勝ちした。長いブランクを考えれば、健闘したほうだと思う。

だが、私はこの試合を(朝日新聞運動面で)辛口批評した。復帰までの過程や対戦相手の選考が不透明に映ったからだ。

1999年8月、王座返り咲きを狙った試合で7回TKO負けを喫した辰吉は、翌日、引退を表明した。失神して終わる惨敗だった。

力の限界を見て取った大阪帝拳側は、1年間、ジムへの出入り禁止を辰吉に伝えた。その間に現役続行への意欲が薄れるのを待つ狙いがあった。

しかし、そうはならなかった。辰吉は「おれは現役しかでけへん」とリングにこだわり、ジム経営者への道を勧めるジム側の申し出をまったく受け付けなかった。

約束の1年が過ぎると、辰吉にジムに来るなとは言いにくい。以後は我慢比べのような日々が続いた。

折れたのはジム側だった。02年9月に日本ランカーとスパーリングをさせたところ、動きがよかったため、復帰戦を模索し始めたという。

辰吉の現役への執念に負けたというのが、大阪帝拳側の言い分だった。わからないではないが、取材してみると、実情は微妙に違う。

事情に詳しい東京のジムの関係者は「今度こそ引退させるための試合。気持ちの整理をさせるのが目的」と言った。いまだに根強い人気を誇る「浪速のジョー」でもう一度商売ができる、という目論見もジム側にはあったと思われる。

02年12月15日に対戦した相手は元世界王者とはいえ、足の運びは硬く、パンチは少なかった。試合前の会見では「勝ち負けにはこだわらない」とまで言っていた。

今まで何度もボクシングを取材してきたが、こんな覇気のないせりふを漏らしたボクサーはいなかった。「作られた試合」のにおいを感じたからこそ、私は厳しいことを書いた。

とはいえ、辰吉は勝った。この騒動はどこまで続くのだろうか。

※注釈と追記

辰吉丈一郎は02年12月15日のセーン・ソー・プルンチット戦のあと、03年9月26日のフリオ・セサール・アビラ戦に10回判定勝ちするが、左足を負傷。
これが国内最後の試合となり、08年にJBCの規定によって引退選手扱いとなる。

その後、タイで2試合を強行し、08年に2回TKO勝ち、09年は7回TKO負け。
上野さんの原稿が掲載されてから3年後の06年以降、私(赤坂英一)はSports Graphic Numberにおいて3度、辰吉に取材したノンフィクションやインタビュー記事を寄稿した。

Sports Graphic Number 666『ナンバー・ノンフィクション 不死鳥の行く先』(2006年11月16日)

Sports Graphic Number PLUS 拳の記憶『辰吉丈一郎 独占インタビュー 親子鷹 父ちゃんが笑われるのはイヤや』(2011年4月26日)

Sports Graphic Number PLUS 拳の記憶Ⅱ〜ボクシング不滅の名勝負〜『辰吉丈一郎 vs. シリモンコン「奇跡の雄叫び」』(2012年11月29日)

取材中、辰吉は最後まで、私のインタビューに「おれはいっぺんもボクシング辞めてない」と言い続けていた。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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