10月4日に公開されて以来、1カ月を過ぎても興行ランキングの2位につけており、メディアや評論家のみならず俳優やお笑い芸人の評価も高いヒット作品。
内容が暗い、救いようがないというコメントも目についたが、だからといって観終わって落ち込むような映画ではない。
ホアキン・フェニックス演じるジョーカーは言わずと知れたアメコミヒーロー・バットマンの敵役。
これまでにもティム・バートン版『バットマン 』(1989年)のジャック・ニコルソン、クリストファー・ノーラン版リブートシリーズ第2作『ダークナイト』(2008年)のヒース・レジャー(アカデミー助演男優賞受賞)、DCエクステンディッド・ユニバース・シリーズ『スーサイド・スクワッド』(2016年)のジャレッド・レトなど、様々な俳優が名演・熱演を残している。
本作がそうした過去の作品と一線を画しているのは、漫画の実写映画化版としてではなく、あくまで生身の人間を描くことに主眼を置いた、一般映画のサスペンス・ドラマとして製作されていることだ。
ティム・バートンのチャレンジから始まった〝漫画を大真面目に実写化する〟という手法は、ついに文芸作品、社会派作品の領域にまで踏み込んだ感がある。
ジョーカーはもともとアーサー・フレックというしがない中年男で、年老いた母の介護に追われながら、コメディアンを夢見てピエロの仕事をしている。
つまり、ジョーカーの出自は格差社会の負け組なのだ。
そのアーサーが暮らすゴッサム・シティも、DCエクステンディッド・ユニバース・シリーズとは違い、貧富の格差が著しく、財政状態が逼迫し、医療・衛生環境が極端に悪化した大都会。
アメリカン・ニューシネマを観て育った世代なら、ここが1970〜80年代のニューヨークがモデルとなっていることは一目でわかるだろう。
製作者側もそれを意識してか、オープニングに出てくるワーナー・ブラザースのロゴマークまで当時のものを復刻。
タイトル・クレジットはさらに時代を遡り、1950〜60年代の映画そっくりのデザインで、本作が本格的な人間ドラマであることを強調しているようだ。
開巻、アーサーが楽器屋の閉店セールの看板を掲げて踊っていると、ストリートギャングの悪ガキたちに看板を引ったくられ、路地裏に連れ込まれて無抵抗のまま袋叩きの目に遭う。
ボロボロになってピエロの派遣プロダクション〈HaHa〉に戻ったら、チーフ・マネージャーのホイト・ヴォーン(ジョシュ・パイス)に「店の看板を壊したな! 契約不履行だとクレームがきてるぞ!」と筋違いの文句をつけられても言い返せない。
そんなアーサーを見かねたように、同僚のランドル(グレン・フレシュラー)は「護身用に持っておけ」は38口径のリボルバーを手渡した。
この拳銃を手にしてからアーサーが徐々に凶暴性を帯びていくくだりは、本作にも出演しているロバート・デ・ニーロが『タクシードライバー』(1976年)で演じた主人公トラヴィス・ビックルに似ている。
また、アーサーと恋人になるソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)が拳銃に見立てた人差し指をこめかみに当て、すぼめた口から「プヒュ〜」と息を吐く場面も明らかに『タクシードライバー』へのオマージュだ。
監督・製作・脚本トッド・フィリップス、共同脚本スコット・シルヴァーは本作の舞台ゴッサム・シティを1981年のニューヨークと想定しており、当時のニューシネマ作品群に影響を受けたと思しき描写や演出がそこここに見られる。
アーサーは過去に精神病歴があり、7種類の向精神薬を服用しながら、シティの福祉課が運営しているクリニックに通っていた。
しかし、シティは財政状態は危機に瀕しており、クリニックは閉鎖され、薬の支給も打ち切られ、担当のソーシャルワーカーに悩みを聞いてもらうこともできなくなってしまった。
バスに乗っているとき、アーサーは前の座席からこちらを見つめていた女の子に変顔をして笑わせる。
女の子の母親に気味悪がられ、「余計なことしないでちょうだい」と諌められると、アーサーは突然ゲラゲラ笑い始めた。
「何がおかしいのよ」と訝る母親に、アーサーはラミネート加工されたカードを見せる。
自分は神経を病んでいて、おかしくもないのに笑い出し、自分で止めることができないと、そこには記されていた。
この笑い声は、アーサーの人物造形にあたって、フィリップスが大変重要視し、フェニックスが最初に苦労した部分だったという。
ふだん抑圧された感情の爆発であることがわかると同時に、観客に哀しみと痛ましさと感じさせるような笑い声でなければならなかったからだ。
この笑っている場面をはじめ、本作はとにかくフェニックスのクローズアップが異常なほど多い。
IMAXレーザーの大きくてクリアな画面でフェニックスの顔と向き合っていると、彼の目に引き込まれそうになる。
プロダクションをクビになったアーサーは、ピエロのメークと格好のまま地下鉄に乗っていて、3人のビジネスマンが女性客の1人にからんでいる場面に遭遇。
自分もその巻き添えになり、床になぎ倒されて蹴飛ばされているうち、ランドルにもらった拳銃で反撃に出る。
アーサーが初めて人を殺し、ジョーカーへの第一歩を踏み出すこの場面は、かつての『タクシードライバー』をゆうに上回る迫力。
IMAXの音響効果とも相まって、館内に大砲のように響く銃声がものすごく、一発だけでは飽き足らず、二発三発とビジネスマンに銃弾を打ち込むアーサーの姿には慄然とさせられた。
殺されたビジネスマンたちは、シティの市長選に出馬しているトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)の経営する証券会社に勤めていた。
アーサーの母親ペニー(フランセス・コンロイ)は30年前、ウェイン家の使用人をしており、経済的苦境にある自分たち親子を救ってほしいという手紙をウェインに出し続けているが、一向に返事がない。
アーサーはウェインが自分の父親ではないかと考え、屋敷や歌劇場で接触を図るが、「おまえの母親の誇大妄想だ」と撥ねつけられ、殴り倒されてしまう。
打ちのめされたアーサーはアーカム州立病院を訪ね、精神科に入院していた母親のカルテを強奪し、初めて自分の出生の秘密を知る。
一方、アーサーの殺人劇は負け組による勝ち組への鉄槌として、貧困層から絶大な支持を獲得し、街中にピエロのメークやマスクをした市民たちが溢れ返るようになっていた。
このあたりから、ブレーキの壊れた車のようなアーサーの暴走が始まり、凄惨な殺人劇の幕が開く。
クライマックスは、アーサーが憧れていたテレビ司会者マレー・フランクリン(デ・ニーロ)の人気トーク番組に生出演するシーン。
ちなみに、フェニックスとデ・ニーロがここまでがっぷり四つに組んだ競演を披露するのは初めてで、観ていて大いに力が入った。
最近、『タクシードライバー』から出世したマーティン・スコセッシが、「人間が描かれていない」として、DCやマーベルのコミックス実写映画化作品をこき下ろしたことは記憶に新しい。
しかし、本作は文芸作品としても社会派作品としても高い完成度を示しており、昔のコミックスはいまや、かつてのニューシネマに代わる新時代のムーブメントを生み出す土壌となった感がある。
採点は今年最高の90点です。
TOHOシネマズ新宿・日比谷・上野、丸の内ピカデリーなどで公開中
2019劇場公開映画鑑賞リスト
※50点=落胆 60点=退屈 70点=納得 80点=満足 90点=興奮(お勧めポイント+5点)
8『アポロ11 完全版』(2019年/米)80点
7『主戦場』(2019年/米)85点
6『長いお別れ』(2019年/アスミック・エース)75点
5『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年/米)80点
4『アベンジャーズ エンド・ゲーム』(2019年/米)75点
3『ファースト・マン』(2018年/米)85点
2『翔んで埼玉』(2019年/東映)80点
1『クリード 炎の宿敵』(2018年/米)85点