昔のドラフトはよかったなあ

グランドプリンスホテル新高輪の中に貼り出された案内

きのうはドラフト会議で、あすから日本シリーズか、時が経つのは早いなあ。
と、まだ今年は2カ月以上も残っているのに、早くも年の瀬感いっぱいです。

人生の諸先輩方はよく、「トシを取れば取るほど、若かったころの記憶がほんのきのうのことのように思えてくる」とおっしゃる。
今シーズンも、とっくに還暦を超えた元阪神と元中日のエース投手が、「ついこの間まで甲子園で投げてたような気がするんだよなあ」と、シミジミと話しておられました。

オレはまだその〝境地〟には達してないぞ、と内心で強がっていたけれど、やっぱりトシだわ、と、ふと思ったのが、きのうのドラフト会議。
会場は例年通り、グランドプリンスホテル新高輪の国際館パミール3階〈崑崙〉で、パーテーションで仕切られた隣のフロアが記者会見場、さらにその隣がマスコミ関係者が待機するプレスルームになっている。

プレスルームには当然、ドラフト会場を映し出すモニターが設置されているが、今時にしては意外に不便で、何故か音声が出ない。
ドラフト指名がパソコン入力になったり、スポンサーのついたテレビ番組になったり、様々な面で近代化されてきたけれど、どうも肝心の部分が置いてきぼりにされているような気がする。

ぼくが初めて取材した1988年のドラフト会議は、取材する側にとってもっと迫力と臨場感のあるイベントだった。
会場は九段グランドパレス、司会は今は亡きパンチョ伊東さん。

「第1回選択希望選手、読売、川崎憲次郎、投手、津久見高校」という朗々たる名調子はいまもはっきりと耳の奥に残っている。
1位指名選手が確定すると、半紙に毛筆で「中日・今中慎二」などと書かれて壁に張り出された。

あの仰々しさに比べると、いまのパソコン画面はいかにも味けない。
ちなみに、パンチョさん最後の司会となったのは1991年で、このときは1年浪人した元木大介のことを「内野手、上宮高校卒」とアナウンスしておられました。

しかし、いまではプレスルームにいる限り、選手の名前を読み上げる声も会場のざわめきも聞こえない。
もちろん会場の中に入れば聞こえるけれど、ここでは記者席が抽選の舞台の後ろにあり、モニターもないため、クジを引く人たちの表情が見えないのですよ。

昔のドラフトはまだアマチュア選手のプロ志望届などルール化されておらず、寝技、抜け道、どんでん返しと何でもアリ。
先の元木や小池秀郎の入団拒否、城島健司の専修大入りを一転させたダイエー入りなど、打算と思惑が漂う生臭いドラマが毎年のように繰り広げられた。

そんな昔話を再現するべきだとは、もちろん言いません。
ただ、ドラフト会議にスポンサーをつけ、テレビ番組として売るのなら、メディアに昔同様の便宜を図り、マスコミ業界全体で盛り上げられるような配慮があってもいいんじゃないか。

このへんでそろそろ、イベントとしての演出を再考すべき時期に来ているような気がします。
NPBとマスコミのみなさん、いかがでしょうか?

ドラフト会場前、球団旗が並んだ〝記念写真撮影スポット〟
スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
先頭に戻る