阿部牧郎の野球小説を読む①『南海・島本講平の詩』

中央公論社 初版発行1971年4月5日 定価390円 古書価格3150円

先日、拙宅に送られてきた文藝家協会ニュース6月号に、直木賞作家・阿部牧郎さんの訃報が載っていた。
85歳で亡くなったのが5月11日で、親族による葬儀・告別式が行われ、マスコミ各社に報じられたのが同月15日。

そのうち、このホームページで追悼文を書こうと思いながら、日々の忙しさに紛れ、きょうまで書けないでいた。
阿部さんはサラリーマン小説や官能小説で知られ、小説が大衆の娯楽として隆盛を誇っていた昭和時代、多数の読者を獲得していた作家である。

しかし、私にとっての阿部さんは、何よりも野球小説の第一人者だった。
私がいま、曲がりなりにも野球やスポーツを書いて生活できるようになっているのは、誰よりも阿部さんの影響が大きい。

残念ながら、阿部さんの野球小説はほとんど絶版になっており、ネットや古書店で探さなければ読むことができない。
そこで、追悼文に代えて、阿部さんの代表作をいくつか紹介したいと思う。

この『南海・島本講平の詩』は古くから野球小説のファンの間で、秘かに伝説化している名著の中の名著。
数ある阿部牧郎さんの野球小説作品群の中だけにとどまらず、わが国のスポーツ小説全体においても屈指の出来栄えを示す珠玉の名篇が並んでいる。

Amazonなどネット書店では古書で8400円以上に達しており、とても手が出ないと嘆息していた6年前、神田神保町の古書店・ビブリオで3150円で売られていると知り、すぐさまご主人に電話して購入した
表題作はもちろんのこと、『ショート広岡達朗背番号2』、『悲しまぬおれたち』がとりわけ素晴らしい。

タイトルに実在のプロ野球選手の名前がうたわれていると、てっきりその選手の評伝的作品ではないかと思ってしまう。
しかし、小説の主人公はその選手に憧れる市井の人間たちだ。

表題作の『島本講平』は箕島高校から南海(現ソフトバンク)に入団した実在のスター選手。
甲子園でプレーする彼を一目見ようと秋田の片田舎から大阪に出てきた少女が、父親に捨てられ、恋人に傷つけられながら、したたかな大人の女に変貌してゆく姿が描かれる。

『広岡達朗』の主人公は、彼を偶像視しているしがないサラリーマン。
彼が現実の厳しさに打ちのめされ、唯一の潤いを得ていた娼婦にも裏切られたとき、衰えを隠せなくなっていた広岡に自分を重ね合わせる。
市井の彼ら、彼女らの人生において、野球は眩いまでに燦然と光り輝く別世界としてそこにある。

その光を垣間見ることによって生き甲斐を得た彼ら、彼女らは、野球が終わると、ふたたび闇に沈んで出口の見えない自分たちの日常に戻ってゆく。
野球はどんなに魅惑的で感動的なスポーツとして目に映っても、いや、そう映れば映るほど、現実の世界では結局、何の救いも与えてくれない。

彼ら、彼女らの苦労や辛酸も報われることなく、そのまま地を這うようにして人生を終えるしかないのかもしれない。
しかし、だからこそ野球は市井の人たちの人生の一瞬で、生涯忘れることのない強烈な光を放つ。

そして、野球を見つめるひとりひとりの心の中に、それぞれに違う、その人だけの古びた記念写真のようにセピア色の残光を刻み付ける。
そういう野球のある風景を鮮やかに切り取り、かつ官能的に描いて、最後に冷たく突き放すところで、阿部さんの文章は読む者の心の中に、確実に野球の持つ魔性のごとき魅力を強烈に印象づけるのだ。

巻末の『悲しまぬおれたち』は著者の高校時代に材をとった作品で、喫煙や飲酒、盗みに輪姦とやりたい放題の不良の集団だった昔の球児の群像劇である。
何故野球に打ち込む少年たちは与太者にならざるを得なかったのか、高校球児だった阿部さんならではの告白が綴られて、その痛々しさが読む者の共感を呼び起こさずにはおかない。

ラストシーンは野球小説屈指の名場面。
読み終える間際、思わず鳥肌が立った。

2019読書目録
※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録

17『カムバック!』テリー・プルート著、廣木明子訳(1990年/東京書籍)※
16『ボール・フォア 大リーグ・衝撃の内幕』ジム・バウトン著、帆足実生訳(1978年/恒文社)
15『ショーケン 最終章』萩原健一(2019年/講談社)
14『頼むから静かにしてくれ Ⅱ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
13『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
12『試合 ボクシング小説集』ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳(1987年/社会思想社 教養文庫)
11『ファースト・マン 月に初めて降り立った男、ニール・アームストロングの人生』ジェイムズ・R・ハンセン著、日暮雅通・水谷淳訳(2019年/河出文庫)
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他著、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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