表題作『頼むから静かにしてくれ』(1966年)はこの2分冊に収められた短編の中で、42ページと最も長いにもかかわらず、一番短く感じられるほどあっという間に読めてしまう。
しかも、もっぱら間接的で抑制の効いた表現を用いて人生の一断面を切り取った他の作品と違い、正攻法の半生記のようなスタイルで、思わずどきりとするような率直な描写が多い。
「十八にして初めて親元を離れることになったとき、ラルフ・ワイマンは父親から助言を与えられた」という書き出しで、この短編は始まる。
この幕開けからして、青年期の追憶をテーマとしたリチャード・フォードのビターな短編を思わせる。
ラルフは一人暮らしをしながら大学に通い、青春期にありがちないくつかの失敗を経験しながら、学業からドロップアウトすることもなく、マリアン・ロスという女学生と知り合って結婚。
大学を卒業後、教職に就き、2人の子供に恵まれ、前項『隣人』(『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』所収)出てくるビルとアーリーンの夫婦のような満ち足りた生活を送っていた。
しかし、一見平穏に見える生活の中で、マリアンは2年前に一度だけ、ミッチェル・アンダーソンという知人男性と不倫の関係を持ったことがある、とラルフは疑っていた。
ふだんは胸の底に仕舞っておいたその疑惑を、ラルフがマリアンに向かって口にしたことで、夫婦の間に抜き差しならない緊張感が生じる。
他のカーヴァーの短編と違うのは、ラルフがマリアンに向かって感情を爆発させることを想像するくだりを、ゴチック体で表現しているところだ。
われわれは年老いてからも若いころのトラウマを思い出してしまい、自分で自分のいたたまれなさをどうすることもできず、つい誰かを怒鳴りつけたり、物を投げつけたりしたい衝動に駆られる。
そんな感情を爆発させる対象が、自分が最も愛し、愛されているはずの家族だったらどうなるか。
最後まで張り詰めた糸のような筆致をひとときも緩めないカーヴァーの文章は、まるでハードボイルド小説かサイコサスペンスのようでもある。
他には、自転車泥棒をしたのではないかという子供同士の揉め事に親が介入し、深刻な対立に発展する『自転車と筋肉と煙草』、妻と娘に黙って飼い犬を捨てに行く亭主を描いた『ジェリーとモリーとサム』(ともに1972年)が面白い。
ただ、正直なところ、カーヴァーの諸作品がピンとくるかどうかは、日本人にとってはかなり個人差があるような気がする。
2019読書目録
13『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
12『試合 ボクシング小説集』ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳(1987年/社会思想社 教養文庫)
11『ファースト・マン 月に初めて降り立った男、ニール・アームストロングの人生』ジェイムズ・R・ハンセン著、日暮雅通・水谷淳訳(2019年/河出文庫)
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他著、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)