日本では『野性の呼び声』(1903年)、『白い牙』(1906年)など、動物小説で知られるジャック・ロンドンがボクシングを描いた短編集。
ネットの古書店で野球関係者の資料をチェックしているとき、ボビー・マルカーノの評伝と一緒に購入したもの。
要するに、ついでに買っておいただけの文庫本なのだが、これが面白い。
15歳で海賊の一員となったのを皮切りに、様々な職業と世界各国を転々としたロンドンはボクサーだったこともあるそうで、実体験に基づいた描写は100年以上たったいま読んでもリアルで迫力に満ちている。
表題作の『試合』は、町の人気ボクサー・ジョウに恋し、結婚を誓い合った少女ジュネヴィーヴの目から見たボクシングの世界が描かれる。
本作が書かれた1900年代はプロボクサーという職業が一般社会で蔑まれており、ジュネヴィーヴが両親から結婚に反対されていることを知ったジョウは、次回の試合を最後に引退することを決心。
当時のアメリカでは女性がボクシングを観戦することが州法などで禁じられていた(あるいは非常識な行為と考えられていた)。
そこでジュネヴィーヴはリングサイド近くの更衣室の覗き穴から、ジョウの最後の試合を観戦する(この会場の構造は現代の日本ではわかりにくいが)。
処女ジュネヴィーヴ(ジョウとはキスまでしかしていない)の目から見たボクサーの肉体美とボクシングの激しさを描写した文章が、実に詩的で美しい。
ただし、試合後、ジョウの突然死による悲恋で終わる幕切れは、今日ではあまりにメロドラマ臭く感じられるが。
『ひと切れのビフテキ』では、四十を越えていながら、妻子を食べさせることもままならないトム・キングが、それほどの大金でもないファイトマネーのため、若いボクサーに乾坤一擲の勝負を挑む。
伸び盛りの対戦相手サンデルは、かつてロートルを叩きのめして嘲笑っていた若き日の自分そのものだった。
ベテランならではのテクニックとスタミナ配分で勝利を収めようとしたキングは、自分の予想をはるかに上回るサンデルの若さとパワーの前にKO負け。
試合前に2マイル(約3.2キロ)の道を歩いて会場に辿り着いたキングは、試合後もタクシー代すら払えず、飲みに行こうというファンの誘いも断り、愚痴をこぼしながら自宅へ向かう。
救いようのない惨めさに打ちひしがれ、目に涙を溢れさせながら、かつて自分がリングに這わせたロートルの気持ちを、キングは初めて理解するのだった。
このエンディングの切れ味は、のちの時代の文豪アーネスト・ヘミングウェイやダシール・ハメットの短編を彷彿とさせる。
『メキシコ人』は今時なら原題通り『ザ・メキシカン』という邦題がつけられるだろう。
今世紀初頭のメキシコ革命の最中、家族を殺されて革命軍に身を投じた少年フェリペ・リヴェラは、革命軍が資金難に陥るたびにボクシングの賞金マッチに出場し、その賞金を惜しみなく注ぎ込んでゆく。
リヴェラは類い稀な素質を持つボクサーでありながら、彼にとってボクシングは革命のための費用を稼ぐ手段に過ぎない。
最後はプロモーターやレフェリーに八百長を強要されながら、誰にも文句をつけられない勝利を収めたリヴェラが、「これで、革命は続けていけるのだ」と内心でつぶやくラストの一文は絶品。
以上の諸作に比べると、才色兼備の女性記者が登場する『奈落の獣』は少々エンターテインメント色が濃い。
それでも、プロボクサーの父親に育てられ、元ボクサーのマネージャー、トム・スチュープナーに育てられるパット・グレンドンの天真爛漫なキャラクターは実に魅力的。
また、それ以前に、当時のボクシングが20ラウンド、ビッグマッチになると45ラウンドで行われていたという記述に大変驚かされた。
当時のボクシング界とマフィアとの密接なつながり、八百長の横行が常識化していたことを示す描写も貴重で印象に残る。
ちなみに、表紙に使用されているモノクロのポートレートはロンドン本人。
日本にもボクシング好きを公言している作家やライターはたくさんいるけれど、自分のファイティング・ポーズを撮影し、それがのちにカバー写真になったというケースは皆無だろう。
2019読書目録
11『ファースト・マン 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生』ジェイムズ・R・ハンセン、日暮雅通+水谷淳訳(2019年/河出書房新社)
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ、神西清訳(初出1900年〜/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ、神西清訳(初出1895年~/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)