今年2月に公開された映画『ファースト・マン』(2018年)の原作となったニール・アームストロングの伝記である。
映画の原作となったアメリカの人物ノンフィクションには『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(ブルース・クック著、1977年/映画化作品、2015年)、『ビューティフル・マインド』(シルヴィア・ナサー著、1998年/映画化作品、2001年)など、秀逸で面白い作品が多く、本書もその例に漏れない。
著者のジェイムズ・R・ハンセンはオーバーン大学教授で、航空宇宙関連の著作が多く、元NASA歴史学者という肩書を持つ。
自伝、評伝を出版したいという数多のオファーが殺到する中、そろそろ人生の晩年に差し掛かっていたアームストロングが唯一、執筆の許可を与えた人物だ。
アームストロングは「人の一生の始まりはこの世に生まれ落ちたときではなく、その人の家系が発生したときにまで遡る」という人生観を持っていた。
そのため、著者は17世紀後半、イングランドとスコットランドの境で誕生したアームストロングの始祖を描くことから書き起こしている。
正直なところ、この序盤はいささか退屈だが、このくだりを読み込んでおかないと、のちに詳しく描写されるアームストロングの人物像は十分理解できない。
アームストロングはテストパイロットを志したころから、ふだんは謙虚で温和、飛行機に乗ると常に沈着冷静で、本書を読む限り、どれほど生命の危機に晒されようと、ほとんど取り乱したことのない人間だった。
ライアン・ゴズリングがアームストロングを演じた映画版では、そういう人間像がいまひとつわかりにくかったけれど、この大部の伝記ではそれなりに納得できるように描かれている。
とくに、アポロ11号の船長に決定した直後の記者会見で、様々なメディアの挑発的な質問にほとんど動じることなく、常にクールなコメントを発する姿が非常に印象的だ。
ハンセンはこのくだりでピューリッツァー賞作家ノーマン・メイラーが書いたアームストロングの記事を引用し、アームストロングが月に行く前から傑出した資質と人間性を備えた人物であったことを喝破。
一方で、アームストロングよりも先に「初めて月に降り立った男」になりたかった副船長バズ・オルドリンの言動も紹介し、彼らふたりが終始かなりの緊張関係にあったことを詳しく描いている。
いよいよ月へ向かい、月面に着陸するところは、50年も前に成功したことだとはわかっていても、読みながら手に汗握らずにはいられない。
宇宙船内での食事と排泄、アームストロングとオルドリンが月で宇宙服に付着した塵芥に悩まされたあたりなど、これまでまったく知らなかったディテールにもいちいち驚かされた。
本書の感想はとても一言や二言では言い表せないが、読み終えたあとになって、はたと気がついたことがひとつ。
「人の一生はその人の家系の発生から始まっている」というアームストロングの人生観は、この「初めて月に降り立った」ことによって培われたのではないか。
アームストロングは月に降り立った自分の一歩を、「(ひとりの)人間の小さな一歩だが、人類にとっては大きな跳躍だ」と表現した。
また、その後も再三コメントしているように、「月に到着できたのは自分ひとりの力ではない、このミッションに関わった人間たち全員の努力の結晶である」と強調していた。
もっと巨視的に捉えるなら、アームストロングの月着陸成功は、われわれ人類全体の進化の証でもある。
そのことが、「人ひとりの人生は決して周囲から孤絶しておらず、その人の家系全体、ひいてはその家系を包含する民族や人類全体の中にある」というアームストロングの認識の源になったようにも思うのだ。
2019読書目録
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ、神西清訳(初出1900年〜/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ、神西清訳(初出1895年~/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)