counter
www.akasaka-cycle.com
font size       [old site
 home   blog   works   pick-up   others   profile   bbs 
当サイトへのご意見、ご質問、ご感想は
以下のアドレスへお寄せください。
chari@akasaka-cycle.com
赤坂英一(あかさか・えいいち)略年譜
1963年
(0歳)
2月24日、広島県竹原市で父・博通(電力会社勤務)、母・邦子の一人息子として生まれる。3600グラムの元気な赤ん坊だった。
1969年
(6歳)
父親の転勤に伴い、竹原市から豊田郡(現東広島市)安芸津町をへて、広島市に転居。広島県立長束小学校に転入する。
1970年
(7歳)

小学2年で大阪万博を見に行く。
父親に連れられ、生まれて初めてプロ野球を見たのもこのころ。もちろん、広島市民球場での広島東洋カープ戦。現役時代のON(王貞治、長嶋茂雄)もかろうじて生で見ることができた。
1971年
(8歳)
小学3年でやっと自転車に乗れるようになる。運動神経は鈍く、体育の授業が嫌いで、休憩時間にはよくひとりでノートに漫画や小説を書いていた。
1973年
(10歳)
小学5年のころから徐々に活発になる。バレーボール、ドッジボールが好きだった。野球は守るほうは下手だったが、打つほうはバットに当たると結構遠くへ飛ばせた。
1975年
(12歳)
広島市立祇園中学校入学。
このころから親に隠れて映画館通いをするようになる。
よく読んでいた作家は「SF御三家」と呼ばれた星新一、小松左京、筒井康隆。
10月15日、カープが初優勝。
1978年
(15歳)
広島県立安古市(やすふるいち)高校入学。たばこを覚える。
映画館の切符代に回すため、親にもらった通学バス用の定期代をくすね、3q程度の距離を自転車で通った。自宅も学校も小高い山の上にあったため、登校と帰宅は毎日頂上ゴール≠セった。
1980年
(17歳)
高校3年で欠課が多過ぎて留年しそうになる。担任の先生には「寝とってもええから授業には出てこい」と言われた。
1981年
(18歳)
大学受験はすべて不合格。高校卒業後、広島駅前の河合塾に通い、1年間の浪人生活に入る。
このころは映画や野球よりもプロレスを熱心に見ていた。
1982年
(19歳)
法政大学文学部日本文学科入学。
日本文学科のくせにアメリカのハードボイルドやSF、ラテンアメリカ文学などを貪るように読んでいた。この影響はいまだに残っている。
1985年
(22歳)
4月11日、国立代々木競技場第一体育館でブルース・スプリングスティーン初の日本公演〈ボーン・イン・ザU.S.Aツアー〉を鑑賞。感激した。
1986年
(23歳)

大学卒業後、日刊現代に入社。夕刊紙〈日刊ゲンダイ〉の記者となる。
最初の配属先は企業、実用記事、時の話題などを扱う文化部。次が1〜3面で政治、経済、事件などを担当するニュース部。
11月、三原山が噴火した伊豆大島の第1次帰島を同行取材。まだ立ち入り禁止だったにもかかわらず、元町まで迫っていた溶岩の上を歩いていてコンバースの底を溶かした(画像)。
1988年
(25歳)
ニュース部からスポーツ部に異動。
配属されたその日、6月14日にさっそく神宮球場へ取材に行き、巨人・呂明賜のプロ初打席初本塁打を見る。初めて書いた野球の原稿は、その呂にホームランを打たれたヤクルトのボブ・ギブソンという新外国人投手の人物モノ。
9月には初めての監督取材で、就任5年目の王貞治を直撃。甲子園の三塁側ベンチ前で「お辞めになるんですか」と質問すると、「わからない。会社からはまだ何も言われてないよ」と王監督は答えた。ほどなくして解任されたとき、王さんは正直な人だな、と思った。
1989年
(26歳)

巨人の担当記者になる。グアムキャンプ、オープン戦、レギュラーシーズン、日本シリーズ、パームスプリングス秋季キャンプ、シーズンオフの契約更改まで1年間、ほぼフルに取材(画像は当時、読売新聞・旧東京本社7階にあった球団事務所)。
シーズン後半は広島や近鉄、福岡ダイエー(のちのソフトバンク)、オリックスの取材にも時々出かけていた。近鉄の仰木彬監督には藤井寺球場の駐車場で追いかけられ、怒鳴りつけられている。
1991年
(28歳)
山本浩二監督就任3年目でカープが優勝。3勝4敗で西武に敗れた日本シリーズは、例年通り全試合取材。
12月、構成を担当した巨人OB・加藤初氏の著書『巨人軍 仲よくするより強くなれ』(廣済堂出版)が出版。一応、これが初の著書=B
1993年
(30歳)
長嶋茂雄が巨人の監督に就任。日刊現代が社として巨人広報部から取材拒否を受け、出入り禁止となる。
4月、〈週刊漫画ゴラク〉(日本文芸社)で初めての署名コラム『プロ野球地獄耳情報』の連載がスタート。
1995年
(32歳)

1月、盲腸炎と大腸憩室炎で人生初の手術と入院生活を経験。この前後に阪神・淡路大震災、オウム真理教事件が相次いで発生している。
秋、日刊ゲンダイの創刊20周年を記念した社員旅行で初めて香港へ(画像)。中国へ返還される2年前だった。
1998年
(35歳)

巨人が4年半ぶりに日刊現代の出入り禁止を解除。宮崎キャンプで球団から支給された担当記者用キャップ、グラウンドコートを着用して取材に励む(画像)。
8月15日、東京ドームでの阪神戦で巨人・川相昌弘が通算452犠打の日本記録を達成。出禁の解除が間に合ってよかった。
1999年
(36歳)
月刊誌〈新潮45〉(新潮社)に短編ノンフィクションの寄稿を始める。
『年収2000万、愛人アリ スポーツ・アナウンサーの優雅で悲惨な私生活』、『タツカワはつらいよ』、『巨人軍広報部はつらいよ』、『バッピーはつらいよ』など。
2001年
(38歳)
シーズン終了後、長嶋監督が勇退、原辰徳ヘッドコーチが監督に昇格。
秋から〈週刊現代〉(講談社)に中・長篇ノンフィクションの寄稿を始める。『2001年 長嶋巨人の敗戦』、『生きていく原辰徳』、『犠打――長嶋茂雄に嫌われた男』など。
その原稿料でプジョーのクロスバイク、ジャイアントのロードバイクなどを購入、趣味としてのスポーツ・バイシクルに本格的にのめり込む。
2002年
(39歳)
7月29日、初の単行本『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。40歳までに自分の著作を発表することを目標にしていたので、ぎりぎり間に合った。
2003年
(40歳)
2冊目の単行本『ジャイアンツ愛 原辰徳の光と闇』(講談社)が出版。
8月20日、東京ドームでの横浜戦で巨人・川相が世界新記録となる512犠打をマーク(のちにメジャー記録保持者だったエディ・コリンズの記録が511から512に修正されたため、現在では川相の記録も513個目をもって更新したことになっている)。これに伴い、『バントの神様』も3刷目の重版。
2005年
(42歳)
25年吸い続けていたたばこをやめる。以後、完璧な嫌煙体質に。
2006年
(43歳)
5月末日をもって21年1カ月勤めた日刊現代を退職。フリーライターとして活動を始める。
寄稿を始めた主な媒体は〈月刊現代〉、ムック〈セオリー〉〈セオリー・ビジネス〉(ともに講談社)、〈Sports Graphic Number〉(文藝春秋)、週刊誌〈アエラ〉(朝日新聞出版)、〈アサヒ芸能〉(徳間書店)など。
12月、月刊誌〈Wedge〉(株式会社ウェッジ)で独立後初の連載『突き抜けた瞬間(とき)』がスタート。野球だけでなく、サッカー、バレーボール、ゴルフ、陸上、ボクシングなど、様々なスポーツを取材するようになる。
同月、独立後初となる3冊目の単行本、初のミステリ小説『情報源』を発表。
2008年
(45歳)

3月、構成を手がけた俳優・萩原健一の自叙伝『ショーケン』(講談社)が出版。著者からの聞き取りは100時間以上、取材期間は1年4カ月に及んだ。
8月、〈アエラ〉の仕事でボストンへ。松坂大輔(当時レッドソックス投手)の厚意により、彼の登板した試合をフェンウェイパークのネット裏で観戦(画像)。
2009年
(46歳)

7月、〈アエラ〉の仕事で初めてモンゴルへ。横綱・白鵬の自宅をはじめ、ダンバダルジャーの日本人墓地、ナショナル・スポーツ・スタジアムなどを取材して回る(画像はウランバートル市街を一望できるザイサンの丘)。
8月、独立後初のノンフィクション『キャッチャーという人生』を上梓。
2010年
(47歳)
11月、〈東京スポーツ〉で『嗚呼、花の原巨人』連載開始。以後、同紙のコラムニスト、及び東京運動記者クラブ会員となる。
2011年
(48歳)

1月30日、関東近郊の里山をマウンテンバイクで走行中に転倒、前転2回、横転1回半で右鎖骨1本、肋骨5本を骨折して福生の救急病院へ担ぎ込まれる。自転車生活で最大の重傷も手術の必要はなく、保存療法で治癒。
3月11日、東日本大震災発生。気仙沼、釜石、福島などを取材に行く(画像は気仙沼)。
2012年
(49歳)

4月、PHP研究所からの初の著書『2番打者論』を発表。
キャンペーンのため、東京・八重洲ブックセンターで巨人OBの解説者・橋本清氏と初めてトークショーを行う(画像)。会場には巨人・川相二軍監督も駆けつけてくれた。
2014年
(51歳)

7月、子供のころからファンだったカープについて綴った著書『広島カープ論』(PHP研究所)が出版。
広島市内の主要書店で過去の著作とともに販売される(画像は紀伊国屋書店広島店)。カープOBの大野豊氏と広島で、金石昭人氏と東京でトークショーも行った。