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『セールスマン』
2017年06月12日(月)
فروشنده,Forushande,The Salesman


 本年度の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞しながら、監督と主演女優がトランプ大統領のイランを含む7カ国の入国制限令に抗議し、授賞式への出席をボイコットしたことで社会的にも反響を呼んだ異色作。
 という話題以前に、日本初公開作品『彼女が消えた浜辺』(2009年)以来、監督・脚本を兼務するアスガル・ファルハーディーに興味を抱いていたので見る気になった。

 舞台は都市開発政策による大がかりなインフラ化が進行しているイランの首都テヘラン。
 主人公エマッド(シャハブ・ホセイニ)は国語の教師、その妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)は専業主婦、というこの国では中流≠ノ属し、文化的生活≠営んでいる夫婦。

 夫婦は地元のアマチュア劇団に役者として参加しており、アーサー・ミラーがピューリッツァー賞を受賞した戯曲『セールスマンの死』(1947年)の舞台稽古に取り組んでいた。
 アメリカ東部で衣料雑貨を売り歩いていたセールスマンのウィリーが都会の近代化についていけず、息子に離反され、ついには悲劇的な最期を迎えるという内容で、エマッドがウィリー、ラナがその妻を演じている。

 この戯曲が本作のモチーフで、タイトルもこの『セールスマンの死』に由来しており、作品全体の暗喩(メタファー)として使われている、ということが見ているうちにわかってくる。
 ウィリーが働いていた1940年代のアメリカ東部同様、現在のテヘランも近代化の波をかぶり、エマッドとラナの暮らすアパートも近所の工事の影響で倒壊しそうな状態にあった。

 仕事や稽古に追われていて新しい物件探しもままならないエマッドは、とりあえず同じ劇団員のババク(ババク・カリミ)に紹介された賃貸アパートに引っ越すことにする。
 そして、その新居に荷物を運び込んで間も無く、ラナが暴漢≠ノ襲われる。

 エマッドとラナの稽古、エマッドの国語の授業、そして夫婦が激しく揺れるアパートから逃げ出し、引越しに踏み切る経緯を、ファルハーディーはクローズアップと手持ちカメラを使い、緊張感たっぷりに描き出す。
 常に画面を揺らせて見る者の不安を掻き立てる手法は、ドキュメンタリー・タッチという以上に、インディペンデント映画のカリスマ、ジョン・カサヴェテス作品の影響が感じられる。

 ファルハーディーがオリジナリティを見せるのは、ラナが襲われる事件≠サのものの描写からだ。
 部屋のインターホンが鳴り、エマッドが帰ってきたと勘違いしたラナは、外に誰がいるのか確かめもしないでドアの鍵を外し、浴室へ入る。

 シャワーの音が響く中、ドアがゆっくりとこちら側に開きかけたその直後、画面はスーパーマーケットで買い物をしているエマッドの姿に切り替わる。
 そのエマッドがアパートに帰ってくると、階段に点々と血の痕が残っており、部屋に駆け込んでもラナはおらず、事件≠ヘすでに起こった後であることがわかる。
 
 アメリカや日本なら間接的にでもレイプ<Vーンを映し、サスペンスを盛り上げようとするところだが、ファルハーディーは事件の詳細をまったく見せようとしない。
 いや、見せようとしても見せられない、と言ったほうが正しいだろう。

 イランでは現代においてもイスラム文化指導省によって厳しい検閲が行われており、性行為を示唆する場面はもちろん、女の裸さえ見せられないのだ。
 国民感情もまた「世間体」や「名誉」を重んじ、「恥」を極端に忌避する社会通念に支配されており、いまだに姦通に対するタブーも根強い。

 夫のエマッドは、この事件を警察に通報し、犯人を捕まえ、社会的制裁を与えるべきだと主張する。
 これが最初、日本人の私には愛する妻を思っての行動に見えるのだが、実はそれだけではなく、妻を犯された亭主としての「名誉」を回復したいがための、日本流に言えば男のプライド≠ノこだわっているがゆえの独善的な行動でもあると感じられるようになる。

 一方、妻のラナはレイプされたことを「恥」と感じており、「世間体」も悪いからと、警察に訴え出ることはおろか、劇団の仲間にすら事件そのものについて口外しようとしない。
 それでいて家にひとりでいると不安でたまらず、エマッドに教師の仕事を休んででもそばにいてほしいと懇願する半面、レイプのトラウマから夜の営みを頑なに拒み続ける。

 本作のモチーフである『セールスマンの死』には、主人公ウィリーの出張先のモーテルに息子が訪ねてきた矢先、浮気相手の娼婦が浴室から出てきて、親子断絶のきっかけになる、という有名な場面がある。
 欧米の舞台では当然、娼婦は裸に近い格好で出てくるのだが、本作におけるイランの公演ではそれができないことから、娼婦役の女優は真っ赤なコートを着て同じセリフをしゃべらなければならない。

 ピューリッツァー賞戯曲をこのようにしか演じられないことを、ファルハーディーは大いになる皮肉を込め、レイプの事実を打ち明けられないラナの態度と重ね合わせて描いている。
 国家の表現に対する規制、表現を抑圧された不自由さを逆手に取り、現代イラン社会におけるコミュニケーションの喪失と人間性の危機にまで踏み込んでいるのだ。

 かくして、全編を通して肝心の事件が見えず(見せられず)、当事者が具体的なことを何も語らないにもかかわらず、われわれは最後までこの映画に引っ張られる。
 表現者は何を語るべきで何を語るべきでないか、改めて考えさせられた作品。

 採点は85点。

(2016年 イラン、フランス/日本配給2017年 スターサンズ、ドマ 125分)

Bunkamura ル・シネマ、シネマ・カリテなどで公開中

※50点=落胆 60点=退屈 70点=納得 80点=満足 90点=興奮(お勧めポイント+5点)

 2017劇場公開映画鑑賞リスト
2『美女と野獣』(2017年/米)80点
1『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』(2015年/伊)75点
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