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追悼記事はまたいずれ
2018年01月6日(土)


 今朝方の星野仙一さんの訃報には驚いた。
 まだ70歳という若さだったからであることはもちろんだが、不謹慎を承知の上で書くと、昨年末にぼくが呼びかけた旧知の記者仲間との忘年会で、星野さんの体調を話題にしたばかりだったからである。

 どうもお加減が芳しくないのではないかと、星野さんの肌艶や表情を見ていて感じたのが、去年の春先のこと。
 その後、星野さんの東京のご自宅に伺ったという球界関係者に近況を聞いて、相当深刻な状態だと知った。

 しかし、それにしても、こんなに早く逝かれるとは想像もしていなかった。
 星野さんを知る誰もが同じ思いだろうけれど、こんなことになるのならもっといろいろな話をしておくべきだった、という後悔の念を拭いきれない。

 正直なところ、ぼくは星野さんが苦手だった。
 原因は、1988年のシーズンにまで遡る。

 この年、まだプロ野球記者になったばかりのぼくが、初めて単独での出張取材を命じられたのが、旧広島市民球場での広島−中日戦である。
 星野さんは当時、監督就任2年目で自身初の優勝に向かって快進撃を続けている只中。

 星野監督の一言一言を細大漏らさず聞いてこい、メモして送れ、と上司に言われ、ぼくは星野さんにへばりついた。
 ただし、正面ではなく背中から。

 そのころ、ぼくが勤めていた日刊ゲンダイは星野監督に大変批判的で、中日の広報部長に「あんまりコレ(と言って親指を立てたら監督を意味していた)の前に顔をさらすな」と言われていたためだ。
 それで、いつも星野さんの背後で耳をそば立てていたら、ある日、星野さんが振り返ってこう聞いてきた。

「どこ?」

「日刊ゲンダイです」

「そういうのがいるから、おれもうっかりしたことは言えんのだよなあ」

 そう言って星野さんが笑ったときは、心底ホッとした。
 ちなみに、こちらから挨拶する前、監督のほうから声をかけられたのは星野さんが最初である。

 このやり取りをきっかけに、星野さんとは親しくなった、かと言えば、まったくそうではないんですけどね。
 ここから先、詳しいことを書こうと思ったら、追悼記事を書きませんか、という依頼が某社からあった。

 ぼくなんか、星野さんの追悼記事を書けるような柄ではないし、その資格もない。
 それでも、リクエストがあったことは光栄なことであり、近い将来、そのタイミングが来たら、自分だけのささやかな星野さんの思い出を綴りたい、と思う。

 いまはただ、謹んでご冥福をお祈りします。